本の強みは問いかける力 ~余白の精神に基づく書き方~
先日、私がよく拝読している「かんどー」様のブログにてこのような記事があった。
本が持つ価値とは「移動」と「伝達」
「インターネット」と「本」における情報の質の違い
僕はエッセイストのほうをやりたい
読者登録者様31~40名ご紹介ページ ~ご登録ありがとうございます~
こんにちは、リュウ・ライタでございます。
いつもご覧になってくださっている方々、ありがとうございます。
本日は「ここだけのはなし」恒例となっております、読者登録者様の紹介コーナーです。
今回は、読者登録者様の31~40名様をご紹介させていただきます!
本日のトップバッターは「エディットマンの編集旅路」さまです。編集にかんする記事が充実しており、ご自身でCGや素材なども作っております。素材やパソコン関係の記事だけでなくご自身の日常的な記事もあります。
2人目にご紹介するのは「単角子宮で二児の母(予定)」さまです。いま現在(この記事執筆中)に2人目のお子様を妊娠しており、執筆者様が妊娠して思うことを記事にしております。これからお子さんを身ごもる人には貴重な意見が揃っていますよ。
3人目にご紹介するのは「はてなブログでの活動記録や、どうすればアクセス数などが上がるのかしっかり記事にしているイメージがあります。私も勉強しなければと思うばかりの記事がたくさんです。
」さまです。私も書いている
4人目にご紹介するのは「happy mean ちょうど良い日常」さまです。ご自身の日常が切り取られた記事が多く見受けられます。それ以外にも、執筆者様が使って便利だったものや本の紹介もしてあるブログとなっております。
5人目にご紹介するのは「kobaの気になるトレンド情報♪」さまです。芸能関連の気になる記事を多く執筆しているように見受けられます。キャッチャーなタイトルが多く自然とクリックして読みたくなってしまいますね♪
6人目にご紹介するのは「fuuraの小部屋」さまです。はてなブログでは珍しく見える小説を執筆されております。私個人も小説や物語は好きなので、思わず読んでしまうブログのひとつとなっております。
7人目にご紹介するのは「あえろぐ。偽の食欲labo」さまです。タイトルにもあるように「食」について書かれた記事が多くありお腹が減ってきそうです。「食」だけでなく啓発的な内容も読んででなるほど、と思う記事がたくさんあります。
8人目にご紹介するのは「大学生が中退してトップ営業マン」さまです。タイトルにもあるように大学を辞めた後に営業マンとして活躍されている方。その中で培われたノウハウは必見ものです!
9人目にご紹介するのは「コミヤマの日記」さまです。備忘録とあるように、ご自身の日常や思ったことを多く綴っているのが特徴。その中に音楽や本のレビューがはさまれており、執筆者様の思想の根幹を垣間見れるようになっています。
本日のラストを飾るのは「kengo700のブログ」さまです。機械系の学問を学ぶ学生らしく、パソコンやソフトを中心に記事が執筆されております。それ以外にもアニメやゲームなど故人の趣味にかんする記事も見受けられます。
今回は、これにて以上となります。読者登録していただきありがとうございます!
今後とも皆様、よろしくお願いします。
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生きた化石
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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。
以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。
担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。
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今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。
カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。
とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。
馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。
町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。
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久々に「小説を書こう」と思った日
ラジオとテレビ
小説という物語の可能性
ワガママと批評の間 ~書くことは「記録」だけを意味しない~
村上龍を執筆した後……
黒板をノートではなく写メで記録すれば、「先生の話に集中できる」「内容を漏らさす記録できる」「ノートに写すよりも圧倒的に早い(時間短縮)」と、いいことだらけです。デメリットとしては、授業中にパシャパシャと音がなるくらいかなと思います。
一方で、ノートをとる事の利点は「手を動かして書いた方が頭に入る」「先生にやっていますアピールができる」「後で見返せることができる(これは写メも同じ)」といった点が考えられます。
でもやっぱり、効率悪い!遅い!めんどくさい!今の時代にわざわざ紙に書く意味がわからない!とデメリットの方が多いのではないかと思うのです。そこで、あるとき学校で、ノートを取らずに黒板を写メで撮ろうと思いました。
でも、これは認められませんでした。「何言ってんの?」レベルです。そもそも学校には携帯を持ち込んではいけませんでした。……学校って、おかしい。「ダメなものはダメ」というのがその理由です。
ネット記事ならば、本数も本数であるため骨組み作成から執筆までパソコン上で行う。しかし、小説や脚本を執筆するときはノートに整理や案出し、骨組み作成を必ず行う。自分が整理できていないもので、人に理解を促したり「おもしろ味」を提供できるなんて、僕には絶対に無理である。かの村上龍氏も「希望の国のエクソダス」を書く際に、膨大な取材ノートを取っていたことは、有名な話である。
アウトプットする意味
自分が感じた主観でしか物事が語られないので「相手がどう見るか」という点が欠如していまう。書く行為は、この「他者の目」があったとしてもわかる形に置き換えることである。
厚切りジェイソンとの出会い
業務に支障が出ていなければちょっとした遅刻は問題ないダロウ?遅れた分より定時過ぎでも残っているダロウし。日本はスタート時間に厳しいのにエンド時間にルースのは #WHYJAPANESEPEOPLE やわ
— 厚切りジェイソン@書籍発売 (@atsugirijason) 2016年2月24日
https://t.co/aiZMRTqB00
たしかに、みんなが同じ場所にいて作業が流れるのは理想だろう。
しかし、今はパソコンでできる仕事も多いし、各家庭で事情も変化しつつある(男性サラリーマンだけで家庭のお金をまかなえるような時代ではないし、父子・母子家庭、介護をしている家庭など)。同業者の人のように、朝に体が動かさなくて十分な仕事に就けない人もいるだろう。
なのに、まるで学校のようにみんなが決まった時間に一斉に会社にへ行くというのも、わりと不効率なんじゃなかろうな。人材確保したいと言っている割には、会社の「仕事なんだからなんとかしろ」という、体育会系的な精神論が見え隠れして嫌になる。その結果、今やワーカーホリックや自殺者が後を絶たない現場があるわけだ。
ダメ人間のダメな発想 - ここだけのはなし
批判は自己主張するための道具ではない
日本にもあった批判精神の源流
更に言えば、日本古来から存在して日曜の夕方を飾る笑点も批判精神に富んでいる。洒落っ気や風刺が生まれたのも、舞台や文学の世界が元となっているものである。もっと時代を辿れば、鎌倉期などに栄えた説話集や奈良~平安期の歌物語には、男女や貴族の交友を洒落っ気(=批評)によって表現していた。
僕が傾倒する作家
ここ最近、妙にブログで書くネタがヘイト気味というか、ちょっと荒々しい気がした。自由に書く分には問題ないと思うけれど、やはり読んでもらって「価値がある」と思っていただくものは提供すべきだと思っている。僕のこの発想というか、書くことで迷った時に指針となるのは、いつも「村上龍」氏である。
春樹じゃないです、龍です
「村上龍」という名前を言えば、多くの人が「春樹じゃないの?」と答える。春樹氏は芥川賞を受賞しておらず、村上龍氏のほうは受賞しているのに、この差は何だと思ったりするのだけれど。兎にも角にも、賞の有無にかかわらず、僕は村上龍氏の考えや文章が好きだ。
村上龍は青少年のドラッグとダークな部分、さらに生き抜くことへの希望を描いた「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞し、その後も世の中で生まれた社会問題を軸に「コインロッカーベイビー」や「希望の国のエクソダス」などの作品が有名かと思う。個人的には映画と共に物語が進む「映画的小説集」も好きだ。でも、はじめから村上龍が好きだったわけではない。村上龍を好きになったのは、僕が師匠と読んでいる人に勧められたからだ。
僕が大学4回生のとき、リーマンショックの煽りを受けて職なんてない時期だった。就職先も決まらず、僕はとあるカフェのマスターの元ばかり行っていた。そのマスターは、ある雑誌の編集長を行った経歴もあるベテラン。少なからず、書くことを仕事にしたいと思っていた僕は、その人から仕事を紹介してもらおうか、とか就職口になるようなことばかり考えていた。
そんなとき、渡された一冊が村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だった。僕はその内容に驚いたこともあったけれど、その文章のリアリティに敬服するばかりだった。自分の目に映ったものを、まるでそのまま文章にする感覚が、僕には新鮮で、今まで読んだどの文章にも当てはまらないものがあった。
僕が大学4回生の頃なんて、何も考えていなかったし、ましてこのように真面目に文章を書くこともなかった。そんな僕が就活の時期になって、編集や文章にかんする仕事を目指すというのも、なんか不思議というか、ある種不気味なことなんだと思った。
よくよく考えれば、大学3回生になって、急に「就活しなきゃ」とか「あの仕事に就きたい」というのも、よく考えればおかしいことなんかもしれない。今になってみれば思い付きのようなものだし、それでご飯を食べていくことを想像するのは、まるで雲の上を歩くことと同じぐらい、危なっかしいというか不可能に近いことなんだと思う。
あまり先のことは考えていないんですよね。今とにかくやっていることの質をなるべく上げるということしか考えていない。…僕よく分からない、なぜみんな将来のことを聞くのかなあと思うんですよね。
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月24日
就活や職を考えるときでも、軸になってくるのは将来のことだろう。でも、今の時代だと自分が就いている職がずっと続くかなんてわからないし、自分が本当に面接やたった3か月や半年程度仕事のことを調べただけで、本当にその仕事ができるかどうかなんてわからない。わかるはずもないし、企業側だってわかったつもりの学生なんてほしいとは思わないと思う。
必然性の有無
村上龍の作品は、他の芥川賞受賞作品と比べると、文学性という点で毛色が違うと思う。しかし、その圧倒的な筆力と取材力、そして生きることへの根源的な考えは彼にしかないものだ。
楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。村上龍BOT
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月25日
彼は今でも闘うことを止めていない。僕としても、本当に自分たちが幸せだと思う環境を作り上げるまでは、この手を止めることはできないのだと思う。村上龍氏と同じ立場だなんて、恐れ多くて言えるわけないけれど、少なくとも、村上龍氏が発信し続けたことを僕なりの形に変換して闘いたい。
では、僕が書くときに、なぜ矛先が「オジさん」に向いてしまうのか。
もちろん、僕だってオジさんを敵にしたいわけではない。ただ、僕たちの時代とオジさんが築き上げた時代には違いがあり過ぎる。ならば、僕たちが新たな形や時代を形成し直す時期に来ているのではないだろうか。もちろん、すべてを否定するわけではなくて、自分たちの「笑い声」を届けるために書くことが必要なんだと思う。
作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月25日
伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。
伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。村上龍BOT
僕は好きで物書きをしているわけではない。よく「したいことを仕事にしていますね」と言われるけれど、どちらかと言えば自分に「できることでご飯を食べたいから書いている」というほうが正しい気がする。だから、自分からライターとか作家なんて名乗りたくない節もあるけれど、名前がないのも不便だから名乗っている感じである。
僕としても、ただ「つらいね」や「しんどいね」を文章にするつもりはない。もっと自分たちは「ここにいるんだよ」とか「こんな価値観だから生きていられるんだ」という、人の根源的なものを書いていきたい。それが僕の持ち合わせる、伝える必要性と価値を備える情報だと信じている。
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不幸をバネにするな!~一括採用の是非と会社組織の限界~
一括採用で就職できない人はダメな人なのか?
会社には勤めたくない。
このような発言をすると、多くの人はいい目で僕のことを見ないだろう。もしくは、もっともらしいことを発言してお金を巻き上げる教祖的に見られることもある。僕としてはそんな教祖にもなりたくないし、白い目で見られる以前にチャンスだって与えられていない。
僕としては、仕事の選択肢としてフリーランスを選んでいるだけであって、そこにはきちんとした考えがある。それが「就活」や「一括採用」するというのが普通みたいな考え方があるだけで、ひとりで仕事をする選択を蔑ろにされてはたまらないのである。
実際、今では誰もが大学に入れるけれど、その先が無い時代。そんな時代において就活とか一括採用なんて、ナンセンス過ぎる。しかし、その中で中途採用を行う企業が少しずつ増えているようである。
転職コンサルタントの73%が「2016年は35歳以上のミドルを対象にした求人が増える」と回答している。企業の採用における若手志向は依然として強いが、若者人口の減少に伴って採用が困難な状況にあり、対象年齢を上げざるを得ないことや、就職氷河期を経験した世代である35歳から45歳の人材が企業にとってもほかの年齢層に比べて少ないことなどが理由に挙げられている。
今では、とりあえず「新卒切符」を利用してどこかに就職し、別の企業へとジャンプアップする人も増えている。僕の周りでも転職する人は3人に1人はいる気がする。企業側としても一括採用を利用し、新たな人材確保を考えているような気がする。
就活は結局、大学生までにキャリアを決められなかった人間の「敗者復活戦」です。極端ですけどプロ野球選手、ピアニストになれる人たちは小学生からやること決めてるわけです。就活って生まれた瞬間から始まってるんだぞと。
ある程度凡庸な人だから、大学生になって初めて自らのキャリアを考えざるをえなくなり、就活をするわけです。折に触れて自分のキャリアを考える時間があったはずなのに、大学3年生や就活を間近に控えてから急に焦って「就職先」だけを考えて、OB/OG訪問をしても遅いんですよ。しかも、大体の場合、就活生にとってOB/OG訪問は就活をやっている「意識高い」自分に酔っているだけなんです。
よく拝読するトイアンナさんのブログには、実際に大きな商社に勤めている方のインタビュー記事がある。この記事でおもしろいのは、商社という大きな組織に所属している人が、働いている人や就活生をよしとしていない点。企業の人でさえ、一括採用や学生の就活で効率よく人材確保なんてできない現実を知っているのである。
こんな記事が出回れば、今現在就活をがんばっている学生の心など、一撃で粉砕されるだろう。
僕が会社が嫌いな理由
僕は会社に5年勤めてみた結果、今の生活をしてみることを選んだ。単純に仕事がつらいこともあったが、僕が何度かこのブログで言っている「生活のための仕事」をしたいこともあって選んだ。
しかし、僕が今のフリーランスを選んだのは生き方だけでない。会社に勤めていると、まだ昭和の「高度経済」を追い駆けているような仕事観に着いていけないからである。仕事の中で「仕事が最も大事だ」とか、「仕事だから仕方ない」とか言うのはマシである。それだけでなくて、全体主義的な流れが色濃く残っているのが鼻に付く。
「うどん」さんのブログにもあるように、とある商材を売るためならば社員のことなど関係なのである。このブログ内でもあるように、とある商材に問題があるにも関わらず、社員には営業をけしかける。この商材を売っている上司や役員は、ものが全国的に普及してしまえば、おそらく「みんな使っている」と思ってもらえるとでも思っているのではないだろうか。
高度経済成長も同じで、みんなが同じ方向を向いていた。それは決して悪いことではないけれど、みんなが「幸せになる」ことにがむしゃらで、懸命に走っていた。でも、そんなけなげさが公害や薬害を生み出したのも事実である。そして、悪いことも「みんな使っている」や「仕方ない」ということで看過されてきたのではないだろうか。日本全体が成長するなら多少の犠牲はやむを得ないなんて、そんなことが許されるのはアニメだけで十分である。
今の日本企業でも、「上司が残業するため社員全員が残らなければいけない」という場所があると友人から聞いた。なんで仕事を効率よく片付けられない人のために、巻き込まれなければいけないのか。仕事が残るならば、そうならないように上司が仕事を仕分けるべきだろう。こんな事例を聞いてしまった今、なおさら会社で仕事なんてする気になれない。
仕事に追われて育児もできない
フルタイムで働いても半分以上保育園代でなくなっちゃう・・・というのもなんだかなーと思います。キャリアを積むことや、子供たちが大きくなっても仕事を続けていくためには仕方のないことだと思いつつ、きっとやり切れないんだろうなあと予想できます。高いですよね、保育園・・・。
では、そんなしんどいことだらけの企業に入って生活や育児が確保されるのかというと、そんなこともない。僕も参加した「待機児童(#taikijidou0challenge)」にかんする記事を読んでいると、この国というのは本当に終わってると感じる。仕事をしても生活は豊かにならないし、むしろ育児さえできない環境になる。本当に意味がわからない。さまざまな「待機児童」にかんする記事を拝読させていただいたけれど、今最も考えるべきなのは「育児」と「仕事」の改革に尽きると感じさせる。
僕だって企業から仕事をもらっているので、会社のすべてを否定したいわけではない。ただ、未だに残る全体主義的な香りがきつすぎて、日本独自の「自己犠牲」を美徳として幸せになることを放棄している感じがある。そんな匂いを払拭したくて、僕はこのように記事を書いている。
映画に「Always」というものがある。ありし日本の風景を映したきれいな映画だが、僕はもろ手を挙げていい映画だと言えない。どん底の経済状況から抜け出そうとする日本人たちを描いたものだが、そういった価値観はすでに使い古されたものではないだろうか。
自分の生きたい人生になるように努力や、諦めない根性は必要である。しかし、不幸をバネにして成長するのは辞めようじゃないか。不幸は不幸でしかないし、不幸で幸せになっても、結局は他者に不幸を強いることになる。それこそ、今の大人たちのように「俺もがんばっているからお前もがんばれ」的な発言をする人を増やすだけである。
大声で「幸せになりたい」、「子どもを育てたい」と叫んだっていいじゃないか。何も恥ずかしい事なんてない。叫べばいい。叫ぶしかない。叫ぼうよ!
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