ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

誰もが広告主になれる時代~情報の差別化と集合知~

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僕はライターなんて仕事をしている。果たしてどれだけ価値ある情報を皆さんに提供しているかなんてわからない。もちろん、このようにして書いている限り「読んでもらって楽しく!」という信念は持ち合わせているが、ベッタリと「読者のために」や「お金を払ってくれてる会社のために」という気持ちは、おそらくほかの人に比べて少ない。

 


というのも、今では情報に恣意的なものが含まれると「読まれない」上に、各企業やテレビなどで流れるCMよりも、ブログのような各執筆者が広告主になれるのが大きな要因だと思われる。誰だって情報を発信できるのだから、僕が奉仕するのはまさに、この文章を読んでいるあなたのためになる。その結果、会社の人にも奉仕できればいいかという感覚が強いだろう(あくまで人で、会社自体に奉仕するとは違う気がする。)

 

ブログは大きな情報源となっている

 

僕が見つけたブログのひとつに、このようなものがある。

 

moognyk.hateblo.jp

 

 

いつの間に結構な数の方に見て貰えるようになって、今では月間25万PV前後あったりするのですから、この私が一番驚いてます。最近ではこのブログを切っ掛けにして、新しい出会いがあったり、ブログサービスを提供しているはてなさんの東京オフィスに伺う機会に恵まれたりと、全てはこの日記を続けていた故。

http://moognyk.hateblo.jp/entry/2015/11/19/150000

 

このブログ執筆者様は、この記事が書かれた頃には仕事を辞めている状態だったが、引用にもあるように月間PVは25万前後。この数は、下手なテレビCMや雑誌よりも見られているんじゃないだろうか。もちろん、この数に対して企業もブログに広告を載せるようになっている。

 

僕は今でも好きな雑誌は読む。テレビもたまにだが見る。ネットも泳ぐ。トータルで情報は見るようにしている。各場所において、さまざな「生きた情報」があると思いますが、最も読み取りやすいのはブログと雑誌かなと思っている。

 

僕が読む雑誌はホビー関係のものと「ブルータス」と呼ばれるものだ。模型は個人的な趣味な側面が強く、「ブルータス」は各月によって絞ったテーマにて編集が施されているものである。
この2誌に共通しているのは、どちらもコアな情報を扱っていて、きちんと編集がなされている点。ホビー関係の雑誌ならば、模型のことにかんして満足できる情報が掲載してある。ブルータスにおいても、各月においてきちんと情報がまとまっているので好きだ。自分にとって有益だと思えない月は、スルーできる選択があるのもいい感じだ。

 

ブログにかんしても、各個人が得意とする内容をまとめてくださっているものがある。そのようなブログを探すのは、書店で本を選ぶ感覚と変わらないかもしれない。自分にとって「おもしろい!」を書いてあるブログがどこにあるのか。このように考えると、誰もが情報を発信して編集する時代に来ているのだなぁと、ほとほと思ってしまう次第である。

 

情報は千差万別であればあるほどいい

 

新聞や各報道機関において偏見取材があると批判・存在価値を問いただす人もいる。しかし、むしろ僕は各報道機関がさまざまなアプローチで報道することのほうが、意味があると思うし歓迎すべき事態だと思っている。

 

webronza.asahi.com

 

昨年あたり、自社の新聞記事において偏っていることを肯定した新聞社があった。この意見に対して、もちろん批判などが起こった。
でも僕としては、絶対的な中立なんてあり得ないし、本当の中立を歌うのであれば、たくさんの報道機関やブログ媒体による情報発信メディアがあればそれでいいんじゃないと思っている。各報道機関や発信者のリテラシーは問われますが「悪貨は良質を駆逐する」が如く、僕たちも悪質な情報から良質な記事を見出す精神が問われている。

 

集合知はバカにできない

 

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東日本大震災あたりからだろうか。アメリカ圏ならばもっと早くから言われていたことかもしれないが、「集合知」という考え方にスポットが当たっている。この考えを元に「群れはなぜ同じ方向を目指すのか」という書籍が出ているほど。レン・フィッシャーと説明したほうがいいかもしれません。ビスケットをジュースに浸す実験などを行ってイグ・ノーベル賞を取っている学者としても有名である。

 

群れが従う規則は、実はきわめてシンプル。魚の場合、「前の個体の後を追うこと」と「横の個体と速さをそろえること」の2つだけ。リーダーも存在しない。驚いたことに、人間社会でも集団を動かすのにリーダーは必要ないという。
興味深いのは、問題解決で最も賢明な方法は集団による多数決か、平均値だということ。たとえば、ビンに入れたアメの数を当てさせると、最も正解に近いのはいつも全員の平均値なのだ。
ただし、他人に流されずに各自が自分で考えた答えを提示しないとこうした現象は表れないという。多様性、つまり個々のバラバラさが逆に一つの優れた知性を生むのだ。

 

http://book.asahi.com/reviews/column/2012093000003.html

 

今の間接性民主主義をあざ笑うかのように、リーダーではなくて集団の情報集積によって世の中は動いているとフィッシャーは説いている。確か、グーグルの情報集積方法も、このフィッシャーに近いものがあった。

 

PageRankアルゴリズムでは、ページ間のリンクを「投票」と解釈し、どのサイトが他のページから最高の情報源として投票されているかを分析します。この手法なら、新しいサイトが増えるたびに情報源と投票数が増えるため、ウェブが拡大するにつれて効果も高まります。

https://www.google.co.jp/intl/ja/about/company/philosophy/

 

グーグルでも、ネット上のリンクを「投票」に見立てて、その投票によって情報源の適正や価値を評価するとしている。どんどん新しい見方や情報に対して貪欲な点を考えれば、日本の一極集中や平均性とは真逆を行っている感じである。

 

日本では同化主義とは言わずとも、周りとの協調や同じ状態であることが好まれ過ぎている気がする。たしかに、他の国や地域に比べて人種の壁を越える機会が無かったこともあるが、それにしても無菌状態な姿をさらし過ぎではないかなと思う。

 

たしか、宗教においては対立もなく何でも受け入れてきた民族のはず。それなのに、どうして同族におけるちょっとした違いだけで、僕たちは差別してしまうのか。やはり、人種の違いや外の人間に触れることに対して温室で育ち過ぎたのかもしれない。もちろん、僕だって例外ではないが。

 

ですが、僕は「人と自分は違う」ことを前提にして会話するからこそ、相手のことだって受け入れられると考えている。始めから「自分と相手は同じ」と考えるからこそ、齟齬や勘違いが生まれているのではないか。そんな風に思う(会社の上司と部下の間で連絡ができないのは、お互いに情報を送っていると思い込んだり「これだけ伝えれば大丈夫」と慢心しているからでしょう……。)

 

新聞だろうとテレビ報道だろうとブログだろうと、もっともっと差別化が図られて「質」の違う情報が増えていけば、自然と情報の質は上がっていると信じている。人の中に入った情報に同じものなんてひとつもない。人の中に入った情報は、見たり聞いたりした人のフィルターを少なからず通るのだから。
ただ、同じ情報が増えたとしても意味がない。本当の意味で個性や個人を大事にするのであれば、もっとブログに価値を見出してもいいのではないかなぁと思う、今日この頃である。

 

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