生きた化石
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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。
以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。
担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。
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今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。
カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。
とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。
馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。
町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。
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