面倒だなと思う瞬間
とある人から「飲みに行きましょう」と誘ってもらった。その人は元職場で仲の良い人で、どうせだから以前飲んだメンバーにも声をかけようと思った。
以前飲んだメンバーとは、ある連絡ツールでグループを作っていた。でも僕は、おそらく誰も何も反応しないだろうと思った。反応しても「都合が合えば参加する」という感じで帰ってくるだろうと思っていた。案の定、そのような解答が並んだ。
その状況を危惧したある女性が「予定表を入れましょう」と言って導入してくれた。これは、参加できそうな日にちをメモできる便利な機能である。でも、やはりというか何というか、誰もメモしなかった。
別にこの事態にイライラしたり怒ったりしないけれど、面倒だなと思うばかりだった。嘘の1つや2つでも付いて「参加できない」の一言も言えないのかと思うと、なんか物悲しくなってしまった。
日本における「意見」とは
先日、とあるブログを見ていて「そうやなぁ」と、ついつい思いながら読ませていただいたものがある。
人に意見を言うことは自由です。何でも言ってほしいと思っています。自分を良い方に変えてくれる意見はどんどん取り入れたいと思っています。だけど「ブログなんてやめて経営に集中してほしい」はスルーしました。
ごめんな、気持ちわかるけどそれ無理なんだわ。スゲーごめんっ!
「かんどー」さんのブログは、自分の中にある「言いたいこと」が形になっていて、素直な感じがあって非常に好きだ。ただ、一歩間違えば「自分の好き勝手に喋ってる」と思われ兼ねないし、日本で同調しない人は好まれない傾向にある。
海外の人は自己主張が激しくて、自分の好き勝手に物事を喋っているように思われがちだが、決してそんなことはない。やはり海外でも喋るのがうまい・下手があって、風刺やコメディ色の強い洋画なんて見ていると、その違いが見て取れる。
日本ではそれも同じかなって思ったりする。得てして、かんどーさんのブログにあるように「経営に集中してくれませんか?」という人は、おそらく会話というか意見を言えても呑み込めない人な気はする。
日本ではそれも同じかなって思ったりする。得てして、かんどーさんのブログにあるように「経営に集中してくれませんか?」という人は、おそらく会話というか意見を言えても呑み込めない人な気はする。
風刺映画「サンキュースモーキング」
風刺映画として印象的なのは「サンキュースモーキング」だ。タバコの宣伝マンであるアーロン・エッカートが口八丁でタバコの正当性を認めさせていく映画である。
この映画がおもしろいのは、アメリカを代表するタバコを通じてさまざまな舞台の裏側を映し出しているところ。アーロン・エッカートは得意の話術でタバコを吸う人の権利を守る、というのがまた笑を誘う。
そんなアーロン・エッカートの姿が滑稽なのではないし、決してタバコの是非を説いているのがおもしろい訳でもない。アーロンが劇中の最後で説く「選ぶことの自由」に対して言及するところにある。
物事の善悪を押しつけがましく説いたって意味がない。大事なのは“自分で考えて選択する”こと。ニックは決して世間とのゲームを楽しんでいるわけではない。あくまで自身の本分を全うしているだけなのだ。喫煙が体に悪影響なのは今や誰でも知っていること。それを吸うか吸わないかは個人の意思で決めるべきだ、というだけの話である。
最近では、タバコだけでなく数々のクレームや法律に僕たちの生活は縛られている。普段はあまり意識していないものでも、実は法律違反に該当するものがある。その法律の無用さや自己満足の圧力に対して、風刺や議論は最適な突破口だ。そのひとつに映画があると思うし、小説があるのだ。
でも、かんどーさんのブログにもあるように、その議論や意見の提示の仕方は、やはり簡単なものではない。
記憶に新しいのは、とあるドラマに対する抗議文である。とあるドラマにて介護現場のシーンがあり、そのシーンが「過激すぎる」とのことで抗議があったようだ。
そもそもドラマとは、虚構であって現実ではない。現実にある部分を元にして作られた「ニセモノ」である。そのニセモノに映された事実に対して過剰に反応するということは、むしろ「抗議をした」ものに何らかの不都合があるのではないだろうか。アーロン・エッカートなら、その部分を即座に突くだろう。
事実、つい最近に介護職の人が利用者の老人を高い場所から落とした事件があった。先日、保育士の待遇にかんする記事を書いたけれど、介護職も「人が足りない」と言われている割には職場・待遇改善には至っていない。それならば、ドラマにて過剰に演出もしたくなる。
過剰に反応する人は「保守的」な人
「サンキュースモーキング」でも語られているけれど、議論をするから答えは出るのであって、どこかに存在する答えを探して議論しているのではない。また、自分にとってほしいものを主張するために議論をするのである。
「お前が楽したいだけだ」
「得したいだけだろ?」
そうである。
僕たちは少しでも楽したいし、得したいものである。ただ、自分がそういった主張をしたとき、頭ごなしに反論をするやつこそ、もっとも楽したくて得したいだけの人なんじゃないですか?
もしくは、面倒なことに蓋をして見ないようにしているだけである。そんなことをしても、何の解決にもならないのに。
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