ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

生きた化石

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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。

 

以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。

 

担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。

 

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今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。

 

カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。

 

とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。

馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。

 

町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。

 

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僕は自分の趣味である模型を買いに、家電店に向かったある日のことだ。レジへ向かうと、3~4歳ぐらいの子どもを連れた女性が会計を先に行っていた。何にでも興味を示す子どもは、女性が目を離すとエスカレーターのほうへと向かおうとしていた。女性は何度も子どもの手を引いて、なかなか会計が終わらなかった。
 
僕は子どもの手を引いて、女性が会計をスムーズに終わるようにサポートした。会計が終わると、女性は軽く会釈だけしてそそくさとその場を去ってしまった。感謝の意などがほしかったわけではない。しかし、お礼や見知らぬ僕に手を引かれた子供に対して、あの女性はどんな説明をするのだろうか。それが気になっただけである。

今思えば、家電店で会った女性は生きた化石だったのかもしれない。これまでの歴史や習慣を堆積した結果生まれた、生きた化石なのである。地縁や顔見知りの人の中だけで生き、そのような人の生き方、そして将来になって公共施設で叫んでしまうような女性を見て育ったのではないなと夢想した。

別にアメリカのようになれとは言わないが、今までの地縁の中で育まれた村的社会ではなくて、本当の意味でも公共性が必要になってくるのではないかと思う、今日この頃である。
 
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久々に「小説を書こう」と思った日

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僕はどちらかと言えば、風景や情景を言葉にして執筆したいタイプである。小説しかり、脚本についてもさまざまな情報を咀嚼して吐き出す。なので、俗に言う「まとめ」サイトの記事を書くときに写真や引用を使うのは苦手で、探すぐらいなら書いた方が早い。
 
 
過去にも記事を書いたけれど、今ではさまざまな「まとめ」が生まれた。その影響で、ネットでは情報ではなくて「まとめ」の氾濫が起こり、その質は劣化の一途を辿った。ネット情報において、有効性がないにもかかわらず検索に引っかかるのも問題になる。そのため、グーグルでも検索のアルゴリズムや方法が変わりつつあるようである。
 
 
僕としても、何か検索を掛けてやたら「まとめ」サイトが出るのは面倒に感じていた。その点にかんしては歓迎すべきところだと思う。そもそも、SEOだけ考えられた文章は面白みに欠ける。
 
 
こちらの記事でも言及しているように、記事を見たときの「おもしろい」がないと意味がない。その有用性を見出せないのに、検索にまとめサイトばかり引っかかるのは釈然としなかったので、僕としては記事検索のあり方の変更はオッケーだと思っている。
 

ラジオとテレビ

 
僕が文章を書くとき大事にしたいのは、映像や写真で語りきれない「見れない部分」を文字化することである。見えない部分を文字化することが主張となり、新たな価値観になると僕は信じている。ネットの情報としては落第なのかもしれない。でも、そんな簡単に「情報」って手に入るものだろうか。
 
たとえば、ラジオとテレビである洗剤のCMが流れたとする。
 
テレビは映像と共に音もあり、伝える情報はたくさんある。これに対して、ラジオは音だけで伝える情報は少ない。
しかし、「伝わる」情報はラジオのほうが多い。ラジオは音に集中するので、聴く側は音以上に情報を得ようとする。このように考えると、ネット上に転がる「あたえる」予定の情報は、本当の意味で人に伝わっていないのではないだろうか。
 

小説という物語の可能性

 
最近は書けていないが、僕は映画が大好きである。この映画を観るとき、僕は「この映像はどのような文章で表現できるだろう」と考える。反対に「この映像は、どんな脚本の元で作られているのだろうか」とも考える。映画は文章になっている物語のひとつの解答であり、そのコンテクストを読み解くことに楽しみがある(もちろん、素直に俳優や女優見たさにみることもある)
コンテクストは映像にも文字にもならない部分である。しかし、その「見えない」部分を考えることが情報となって、人に伝えたいという動作になるのではないだろうか。
 
小説においても同じことが言えるのではないだろうか。小説においめ風景や人の動作が描かれるのは、その読み手の経験や知識を借りて脳内に映像を一緒に作り上げるからである。
 
小説の中にある物語には、もちろん筆者の主張や書いてあるストーリーラインは同じものがあるだろう。しかし、読む人の数だけその解釈や受け取り方は変わってくる。その自分の中に生まれる「意見」がぶつかること。人の間を伝達することで、はじめて情報となるのだろう。
 
僕は最近、ウェブ上でしか小説を書いていなかった。でも、今こそ本格的に小説を書いてみるのもいいかも。このネット上の情報を見ていて、そのように思った。
 
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ワガママと批評の間 ~書くことは「記録」だけを意味しない~

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村上龍を執筆した後……

 
先日は村上龍に対する記事を読んでいただき、非常にうれしかったです。ありがとうございます。
 
 
村上龍のことについて語ったあと、僕はこんな記事を発見した。
 
黒板をノートではなく写メで記録すれば、「先生の話に集中できる」「内容を漏らさす記録できる」「ノートに写すよりも圧倒的に早い(時間短縮)」と、いいことだらけです。デメリットとしては、授業中にパシャパシャと音がなるくらいかなと思います。
 

一方で、ノートをとる事の利点は「手を動かして書いた方が頭に入る」「先生にやっていますアピールができる」「後で見返せることができる(これは写メも同じ)」といった点が考えられます。

でもやっぱり、効率悪い!遅い!めんどくさい!今の時代にわざわざ紙に書く意味がわからない!とデメリットの方が多いのではないかと思うのです。そこで、あるとき学校で、ノートを取らずに黒板を写メで撮ろうと思いました。

でも、これは認められませんでした。「何言ってんの?」レベルです。そもそも学校には携帯を持ち込んではいけませんでした。……学校って、おかしい。「ダメなものはダメ」というのがその理由です。

https://news.careerconnection.jp/?p=21114

 
書いてあることにどうこう言うつもりはないし、頭ごなしに批判するつもりはない。ただ、コメント欄を見ると中々に荒れている様子だった。
 
確かに、書く側の立場からすれば書くことの本質は「記録」ではなくて「整理」である。
ネット記事ならば、本数も本数であるため骨組み作成から執筆までパソコン上で行う。しかし、小説や脚本を執筆するときはノートに整理や案出し、骨組み作成を必ず行う。自分が整理できていないもので、人に理解を促したり「おもしろ味」を提供できるなんて、僕には絶対に無理である。かの村上龍氏も「希望の国エクソダス」を書く際に、膨大な取材ノートを取っていたことは、有名な話である。
 
先ほどの記事から教訓を得るのであれば、情報を共有しているようで、実は自分にわかる形でしか解釈していない点だろうか。
 

アウトプットする意味

 
今ではSNSや、以前紹介した「キャプチャー」という文化が発達している。誰でも簡単に情報を発信して、誰でも共有できる。これは大いに歓迎していいだろう。以前、こちらの記事でも僕はキャプチャー文化について書いている。
 
 
しかし、提供する側となったとき「私はこれがおもしろかった」、「これはためになった」という主観で物事の伝達が行われていることは、問題点である。
自分が感じた主観でしか物事が語られないので「相手がどう見るか」という点が欠如していまう。書く行為は、この「他者の目」があったとしてもわかる形に置き換えることである。
 
このように書くと、黒板を写メる全国の学生から「見るのは自分だけ」という反論が来るかもしれない。ならば、その写メを今の自分が理解できたとしても、未来の「自分」は理解できるのだろうか。
 
僕はできないと思う。
 
過去の自分も他者的な側面を持っており、また「キャプチャー」された情報ならばそこに「思考」は含まれない。ただの情報でしかないものに価値なんてない。情報は利用され、手垢に塗れ、人の間を通って初めて価値が生まれる。情報自体に価値や希少性があるのではなくて、他者との間に生まれるものが情報である。
 
直接批判はしないが、これが僕の「情報」や「書くこと」にかんする思考だと記録しておこうと思う。
 

厚切りジェイソンとの出会い

 
 
僕はつい最近まで塾講師の仕事もしていた。そのとき、学生から「厚切りジェイソン」という芸人がおもしろいと聞いた。
 
 
実際に検索してはじめて見かけた記事がこちらで、この記事はじめに挙げたものと違って思わず最後まで興味深く読んでしまった。
 
経歴を見ると、ただの芸人ではなくてIT系の企業に勤めている人のようだ。芸風はともかく、欧米人から見る日本のおかしいところの指摘や、批評するセンスが抜群だ。
 
 
 
この記事にあったツイートを見たけれど、これは以前僕も似たようなことを記事にしていた。もちろん、厚切りジェイソンのことを知らないときに書いたもので、この類似性に驚きをかくせなかった。
 
 

ryuuraita.hatenablog.com

 

たしかに、みんなが同じ場所にいて作業が流れるのは理想だろう。

しかし、今はパソコンでできる仕事も多いし、各家庭で事情も変化しつつある(男性サラリーマンだけで家庭のお金をまかなえるような時代ではないし、父子・母子家庭、介護をしている家庭など)。同業者の人のように、朝に体が動かさなくて十分な仕事に就けない人もいるだろう。

なのに、まるで学校のようにみんなが決まった時間に一斉に会社にへ行くというのも、わりと不効率なんじゃなかろうな。人材確保したいと言っている割には、会社の「仕事なんだからなんとかしろ」という、体育会系的な精神論が見え隠れして嫌になる。その結果、今やワーカーホリックや自殺者が後を絶たない現場があるわけだ。

ダメ人間のダメな発想 - ここだけのはなし

 

別に自分の意見が正しいことを言いたいのではなくて、はじめに挙げた社畜女子高生と厚切りジェイソンの記事の差は何だろうか。やはり、というか皮肉な話「書く力」が明暗を分けたのではないだろうか。
 

批判は自己主張するための道具ではない 

 
前者の記事では、やはり自分が手中したいことしか盛り込まれていない。僕としてもみんなが学校に通う必要性や成績評価には是非を唱えるべきだと思う。
しかし、社畜女子高生の記事では自分の行為が「どれだけ正しいのか」という主張しかない。しかも「これっておかしいよね」という半ば決め付けにかかるような書き方も気になる。他者にとって「どれだけメリットがあるか」、「これは正当な意見です」という、第三者に対する提示がない。そもそも、学校教育にかんする指摘が残念ながらズレている。
 
これに対して後者は、筆者自身の考えに基づいて、現代社会が抱える問題に対して指摘を加えている。質問者からの解答という形になっているが、質問に対するアンサーがウィットで批判に富んでいる。
普通に考えれば「遅刻なんて許されない」という日本的な風潮がある。しかし、厚切りジェイソンは欧米育ちなので、日本の全体主義や同調主義に対する違和感を唱えやすく、また「遅刻にうるさいのにダラダラ残業はいいんだね」と別の価値観を提供している。自分の立場から日本の風潮にどれだけ斬り込んでいいのかも心得ている気がする。前者の記事と比べると、明らかに自分が「何を提供できるのか」という部分を考えている。
 
批評と言えば、みんな毛嫌いするというか、非常に嫌なイメージを浮かべる人が多い。しかし、批評とは本来お互いのメリットを探し出す作業である。決して自分の主張の正しさを証明するものではない。お互いのメリットを探す、希望ある行為なのだ。しかし、その多くが閉じている上、未だに精神論で終わってる感じがある。
 

日本にもあった批判精神の源流 

 
日本では、残念ながら批評という文化は根付いていないだろう。過去には敬語という言葉で、相手を「いなす」ことに長けた人は多くいた。しかし、どれだけの人が敬語の技術を身につけているだろうか。

それだけでなく、日本人は日記にて個人の感情を色濃く表現してきた。他国では日記というのはログ代わりのものであることが多く、過去に随筆や日記が文学として興隆したのは日本ぐらいなのだとか。

更に言えば、日本古来から存在して日曜の夕方を飾る笑点も批判精神に富んでいる。洒落っ気や風刺が生まれたのも、舞台や文学の世界が元となっているものである。もっと時代を辿れば、鎌倉期などに栄えた説話集や奈良~平安期の歌物語には、男女や貴族の交友を洒落っ気(=批評)によって表現していた。
 
しかし、残念ながらその両方の文化は衰退の危機にある。日本人が唯一と言っていいほど「批評眼」を鍛える場であった敬語社会と日記の消失は、現代人の情報に対する捉え方・価値観に通ずるものがある気がする。
 
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僕が傾倒する作家

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ここ最近、妙にブログで書くネタがヘイト気味というか、ちょっと荒々しい気がした。自由に書く分には問題ないと思うけれど、やはり読んでもらって「価値がある」と思っていただくものは提供すべきだと思っている。僕のこの発想というか、書くことで迷った時に指針となるのは、いつも「村上龍」氏である。

 

春樹じゃないです、龍です

 

村上龍」という名前を言えば、多くの人が「春樹じゃないの?」と答える。春樹氏は芥川賞を受賞しておらず、村上龍氏のほうは受賞しているのに、この差は何だと思ったりするのだけれど。兎にも角にも、賞の有無にかかわらず、僕は村上龍氏の考えや文章が好きだ。

 

村上龍は青少年のドラッグとダークな部分、さらに生き抜くことへの希望を描いた「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞し、その後も世の中で生まれた社会問題を軸に「コインロッカーベイビー」や「希望の国エクソダス」などの作品が有名かと思う。個人的には映画と共に物語が進む「映画的小説集」も好きだ。でも、はじめから村上龍が好きだったわけではない。村上龍を好きになったのは、僕が師匠と読んでいる人に勧められたからだ。

 

僕が大学4回生のとき、リーマンショックの煽りを受けて職なんてない時期だった。就職先も決まらず、僕はとあるカフェのマスターの元ばかり行っていた。そのマスターは、ある雑誌の編集長を行った経歴もあるベテラン。少なからず、書くことを仕事にしたいと思っていた僕は、その人から仕事を紹介してもらおうか、とか就職口になるようなことばかり考えていた。

 

そんなとき、渡された一冊が村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だった。僕はその内容に驚いたこともあったけれど、その文章のリアリティに敬服するばかりだった。自分の目に映ったものを、まるでそのまま文章にする感覚が、僕には新鮮で、今まで読んだどの文章にも当てはまらないものがあった。

 

僕が大学4回生の頃なんて、何も考えていなかったし、ましてこのように真面目に文章を書くこともなかった。そんな僕が就活の時期になって、編集や文章にかんする仕事を目指すというのも、なんか不思議というか、ある種不気味なことなんだと思った。

 

よくよく考えれば、大学3回生になって、急に「就活しなきゃ」とか「あの仕事に就きたい」というのも、よく考えればおかしいことなんかもしれない。今になってみれば思い付きのようなものだし、それでご飯を食べていくことを想像するのは、まるで雲の上を歩くことと同じぐらい、危なっかしいというか不可能に近いことなんだと思う。

 

 

就活や職を考えるときでも、軸になってくるのは将来のことだろう。でも、今の時代だと自分が就いている職がずっと続くかなんてわからないし、自分が本当に面接やたった3か月や半年程度仕事のことを調べただけで、本当にその仕事ができるかどうかなんてわからない。わかるはずもないし、企業側だってわかったつもりの学生なんてほしいとは思わないと思う。

 

必然性の有無

 

村上龍の作品は、他の芥川賞受賞作品と比べると、文学性という点で毛色が違うと思う。しかし、その圧倒的な筆力と取材力、そして生きることへの根源的な考えは彼にしかないものだ。

 

 

 彼は今でも闘うことを止めていない。僕としても、本当に自分たちが幸せだと思う環境を作り上げるまでは、この手を止めることはできないのだと思う。村上龍氏と同じ立場だなんて、恐れ多くて言えるわけないけれど、少なくとも、村上龍氏が発信し続けたことを僕なりの形に変換して闘いたい。

 

では、僕が書くときに、なぜ矛先が「オジさん」に向いてしまうのか。

 

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もちろん、僕だってオジさんを敵にしたいわけではない。ただ、僕たちの時代とオジさんが築き上げた時代には違いがあり過ぎる。ならば、僕たちが新たな形や時代を形成し直す時期に来ているのではないだろうか。もちろん、すべてを否定するわけではなくて、自分たちの「笑い声」を届けるために書くことが必要なんだと思う。

 

 

 僕は好きで物書きをしているわけではない。よく「したいことを仕事にしていますね」と言われるけれど、どちらかと言えば自分に「できることでご飯を食べたいから書いている」というほうが正しい気がする。だから、自分からライターとか作家なんて名乗りたくない節もあるけれど、名前がないのも不便だから名乗っている感じである。

 

僕としても、ただ「つらいね」や「しんどいね」を文章にするつもりはない。もっと自分たちは「ここにいるんだよ」とか「こんな価値観だから生きていられるんだ」という、人の根源的なものを書いていきたい。それが僕の持ち合わせる、伝える必要性と価値を備える情報だと信じている。

 

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不幸をバネにするな!~一括採用の是非と会社組織の限界~

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一括採用で就職できない人はダメな人なのか?

 

会社には勤めたくない。

このような発言をすると、多くの人はいい目で僕のことを見ないだろう。もしくは、もっともらしいことを発言してお金を巻き上げる教祖的に見られることもある。僕としてはそんな教祖にもなりたくないし、白い目で見られる以前にチャンスだって与えられていない。

 

僕としては、仕事の選択肢としてフリーランスを選んでいるだけであって、そこにはきちんとした考えがある。それが「就活」や「一括採用」するというのが普通みたいな考え方があるだけで、ひとりで仕事をする選択を蔑ろにされてはたまらないのである。

 

実際、今では誰もが大学に入れるけれど、その先が無い時代。そんな時代において就活とか一括採用なんて、ナンセンス過ぎる。しかし、その中で中途採用を行う企業が少しずつ増えているようである。

 

hanjohanjo.jp

 

転職コンサルタントの73%が「2016年は35歳以上のミドルを対象にした求人が増える」と回答している。企業の採用における若手志向は依然として強いが、若者人口の減少に伴って採用が困難な状況にあり、対象年齢を上げざるを得ないことや、就職氷河期を経験した世代である35歳から45歳の人材が企業にとってもほかの年齢層に比べて少ないことなどが理由に挙げられている。

http://hanjohanjo.jp/article/2016/02/23/5131.html

 

今では、とりあえず「新卒切符」を利用してどこかに就職し、別の企業へとジャンプアップする人も増えている。僕の周りでも転職する人は3人に1人はいる気がする。企業側としても一括採用を利用し、新たな人材確保を考えているような気がする。

 

toianna.hatenablog.com

 

就活は結局、大学生までにキャリアを決められなかった人間の「敗者復活戦」です。極端ですけどプロ野球選手、ピアニストになれる人たちは小学生からやること決めてるわけです。就活って生まれた瞬間から始まってるんだぞと。

ある程度凡庸な人だから、大学生になって初めて自らのキャリアを考えざるをえなくなり、就活をするわけです。折に触れて自分のキャリアを考える時間があったはずなのに、大学3年生や就活を間近に控えてから急に焦って「就職先」だけを考えて、OB/OG訪問をしても遅いんですよ。しかも、大体の場合、就活生にとってOB/OG訪問は就活をやっている「意識高い」自分に酔っているだけなんです。

http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/02/09/170000

 

よく拝読するトイアンナさんのブログには、実際に大きな商社に勤めている方のインタビュー記事がある。この記事でおもしろいのは、商社という大きな組織に所属している人が、働いている人や就活生をよしとしていない点。企業の人でさえ、一括採用や学生の就活で効率よく人材確保なんてできない現実を知っているのである。

 

こんな記事が出回れば、今現在就活をがんばっている学生の心など、一撃で粉砕されるだろう。

 

僕が会社が嫌いな理由

 

僕は会社に5年勤めてみた結果、今の生活をしてみることを選んだ。単純に仕事がつらいこともあったが、僕が何度かこのブログで言っている「生活のための仕事」をしたいこともあって選んだ。

 

しかし、僕が今のフリーランスを選んだのは生き方だけでない。会社に勤めていると、まだ昭和の「高度経済」を追い駆けているような仕事観に着いていけないからである。仕事の中で「仕事が最も大事だ」とか、「仕事だから仕方ない」とか言うのはマシである。それだけでなくて、全体主義的な流れが色濃く残っているのが鼻に付く。

 

eigyo-woman.hateblo.jp

 

「うどん」さんのブログにもあるように、とある商材を売るためならば社員のことなど関係なのである。このブログ内でもあるように、とある商材に問題があるにも関わらず、社員には営業をけしかける。この商材を売っている上司や役員は、ものが全国的に普及してしまえば、おそらく「みんな使っている」と思ってもらえるとでも思っているのではないだろうか。

 

高度経済成長も同じで、みんなが同じ方向を向いていた。それは決して悪いことではないけれど、みんなが「幸せになる」ことにがむしゃらで、懸命に走っていた。でも、そんなけなげさが公害や薬害を生み出したのも事実である。そして、悪いことも「みんな使っている」や「仕方ない」ということで看過されてきたのではないだろうか。日本全体が成長するなら多少の犠牲はやむを得ないなんて、そんなことが許されるのはアニメだけで十分である。

 

今の日本企業でも、「上司が残業するため社員全員が残らなければいけない」という場所があると友人から聞いた。なんで仕事を効率よく片付けられない人のために、巻き込まれなければいけないのか。仕事が残るならば、そうならないように上司が仕事を仕分けるべきだろう。こんな事例を聞いてしまった今、なおさら会社で仕事なんてする気になれない。

 

仕事に追われて育児もできない

 

kittystyle.net

 

フルタイムで働いても半分以上保育園代でなくなっちゃう・・・というのもなんだかなーと思います。キャリアを積むことや、子供たちが大きくなっても仕事を続けていくためには仕方のないことだと思いつつ、きっとやり切れないんだろうなあと予想できます。高いですよね、保育園・・・。

http://kittystyle.net/taikijidou0challenge.html

 

では、そんなしんどいことだらけの企業に入って生活や育児が確保されるのかというと、そんなこともない。僕も参加した「待機児童(#taikijidou0challenge)」にかんする記事を読んでいると、この国というのは本当に終わってると感じる。仕事をしても生活は豊かにならないし、むしろ育児さえできない環境になる。本当に意味がわからない。さまざまな「待機児童」にかんする記事を拝読させていただいたけれど、今最も考えるべきなのは「育児」と「仕事」の改革に尽きると感じさせる。

 

僕だって企業から仕事をもらっているので、会社のすべてを否定したいわけではない。ただ、未だに残る全体主義的な香りがきつすぎて、日本独自の「自己犠牲」を美徳として幸せになることを放棄している感じがある。そんな匂いを払拭したくて、僕はこのように記事を書いている。

 

映画に「Always」というものがある。ありし日本の風景を映したきれいな映画だが、僕はもろ手を挙げていい映画だと言えない。どん底の経済状況から抜け出そうとする日本人たちを描いたものだが、そういった価値観はすでに使い古されたものではないだろうか。

 

自分の生きたい人生になるように努力や、諦めない根性は必要である。しかし、不幸をバネにして成長するのは辞めようじゃないか。不幸は不幸でしかないし、不幸で幸せになっても、結局は他者に不幸を強いることになる。それこそ、今の大人たちのように「俺もがんばっているからお前もがんばれ」的な発言をする人を増やすだけである。

 

大声で「幸せになりたい」、「子どもを育てたい」と叫んだっていいじゃないか。何も恥ずかしい事なんてない。叫べばいい。叫ぶしかない。叫ぼうよ!

 

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僕が税務署で出会ったオジさん

武器, 暴力, 子供, 子, 危険, 戦争, 無罪
 
僕も個人事業主の1人となったので、人生で初めての確定申告を行うことになった。
 
初めてのことで分からないことばかりだったが、知人やネットにある情報を元に申告書を作成した。今では無料の帳簿ツールがあるし、国税局のほうで申告書作成ページも用意してある。源泉徴収票や支払調書に基づいて、用意してあるフォームに記入していけば簡単に作成できるようになっている。
 
この国税局が用意したフォームのすべての部分に満足したとは言えない(とくに、用語などにかんする説明は不十分に感じたこと)。でも、自分が思っている以上に簡単だったし、税金にかんしての勉強になった。
 
ただ、自分が初めて作成した申告書に不備があってはいけないと思い、念のため税務署の「無料相談」にて確認をしてから提出することにした。
 

税務署にて出会ったオジさん

 
僕と同じような考えの人が多いのか、確定申告時の税務署は人であふれていた。待機用のパイプイスがエントランスいっぱいに敷き詰められ、空いている方が少ないほどに埋まっていた。
 
受付で相談内容を告げると、番号札を渡されて待つことになった。その間、後ろの席でオジさんがオバさんに話しかけているのが聞こえてきた。粗野で、税務署には似つかわしくない声で。
 
「なんでこんな確定申告は面倒なんや。申告書以外に調書や明細書必要とか。なかったら『持ってきてください、国で定められているので』の一言で終わりや。もっと気ぃ使われへんのか」
 
あまりに騒がしいので耳を塞ぎたかったけれど、概ねこんなことを喋っていた。ぼくが嫌いなタイプの代表格だ。別にオジさんが嫌いではないけれど、どうしてもこの類の人はオジさんに見られるのだ。
 
確定申告を作っている過程で、源泉徴収票や支払調書を使うのだから、税務署にて必要とは考えなかったのだろうか。金銭や公共の手続きなのだから、ハンコがいることだってわかるだろう。こんなこと、作成していればわかることである。だが、往々にして公共の手続きで文句を言う人は、仕事場で「なんでこんなこともわからない」と、部下に自分の思想を押し付けているのだと思うと、僕の胸はムカムカする。
 
「最近の若い人は」という人は、どこかで「あのオヤジは」と言われているだろう。「なんでこんなこともわからない」という人は、結局のところ狭いテリトリーでしか物事を見ていないからそんな台詞が出てくるのだ。「こんなこともわからない」と思うのならば、自分でわからない人に説明をすればいい。結局は、その努力をお互いに放棄しているだけのような気がする。
 

公共機関だって変わってきている

 
たしかに、公共機関は気が利かないところもある。しかし、以前に比べればグッと利用しやすいイメージを受ける。
 
以前、健康保険のことで市役所を利用したときも、職員の対応はコンビニよりも人当たりがよいが、顔見知りの店のような馴れ馴れしさもなかった。利用者しやすいと感じる時は、きちんと話しを聞いた上で対応してくれる職員である。しかし、利用しづらいと感じるのは「そんなこともわからんのか」と突き放すオジさんだった。そのときは、健康保険のことについては何も解決しなかった。
 
「現在、妊娠中です。保育園のことを知りたいのですが……」と切り出しましょう。係員によって当たり外れはあります。どこに住んでいるのか、いつ生まれるか、いつ復帰するのかなど質問してくれて、どうしたらいいか親切に教えてくれるようなら「当たり」です(ただし、4月入園申請受付の時期である11、12、1月は窓口が混むので、細かい相談には乗ってもらえないかもしれません)。
 
僕は以前、待機児童のことについて執筆したことがある。ここで待機児童のことについて書けば長くなりそうなので控えるけれど、待機児童が減らない理由は役場の絶対数ではない。きちんとした手続きができないまま追い返される保護者がいることも問題なのだろう、と僕は思っていたりする。
こうしたことは役場だけではないのだろうけれど、市民に助力する役場員に当たり外れがあるというのは、なんとも悲しいことである。
 

子どもの数よりも、これからのオジさんの数も問題

 
人ごみの税務署でも、僕はすべての書類と必要品を用意していたので30分足らずですべての手続きが終わった。
 
帰り際、受付のあるエントランスを見ると、オジさんは職員と何か言い争いをしていた。あのオジさんは、あと何回税務署を訪れて、何回職員に愚痴をこぼすのだろうか。職員のことを思うと道場なんて言葉では表せない哀愁が漂った共に、税務署で見た粗野なオジさんたちが日本の高齢者の大部分を占めると思うと、僕はゾッとした。
 
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読者登録者様21~30名様ご紹介ページ~ご登録、ありがとうございます~

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ども、リュウ・ライタです。

 

読者登録していただいた方々、ありがとうございます!

 

先週から爆発的にアクセス・登録者さまが増えて嬉しい限りでございます。そこで、「ここだけのはなし」恒例の読者登録者様のご紹介をさせていただきます。今回は21~30名さまのご紹介となります!

 

sakabesharoushi.hatenadiary.jp

 

トップバッターは「へんてこ社労士のときどきブログ」です。世の中の事情に合わせた旬な話題と共に、ご自身の仕事の知識を生かしたブログとなっております。時事だけでなく社労士からの論点を見れる貴重なブログとなっております。 

 

obus.hateblo.jp

 

2つ目にご紹介するのは「おブスとおバカと時々おネエ」です。ご自身のキャラクターがよく出ている文体が特徴で、はてなブログでよく見るSEO的な記事にはない魅力があります。特に、「Mさん」との掛け合いを文体にしている記事は必見です。 

 

mannmosudaisuki.hatenablog.com

 

3つ目にご紹介するのは「ボクの目線。」です。アニメやカラオケ上達方法など、まさに執筆者様から見た「目線」を大事にしているブログとなっております。最近書かれている「テレビを見なくなって変わった変化」のまとめは、興味深い内容です。 

 

kanseinokaikaku-shin.hatenablog.com

 

4つ目にご紹介するのは「叙情詩の種」です。執筆者様はバンド活動をしており、そのライブ情報や音楽論について書かれております。ご自身で小説も書いているだけでなく、ユーチューブでの動画活動など、幅広い活動が見られるブログです。

 

ecomoving.hatenablog.com

 

つ目に ご紹介するのは「エコムー便」です。格安配送のサービスを行っており、宅配サービスにかんするお得な情報が掲載してあります。3月や9月など、移動が激しくなる前に読んでおきたいブログのひとつです。

www.jiyuikuji.com

 

6つ目にご紹介するのは「自由育児」です。タイトルにあるように、育児にかんするご自身の体験や知識がいっぱい詰まったブログ。赤ちゃんだけでなく10歳の子どもにかんする育児、さらにチョコレートの作り方など生活にかんする知恵が見られますよ!

 

ko-chanblog.hatenablog.com

 

7つ目にご紹介するのは「人生の楽しみ~ほんの少しの幸せの時間~」です。人生と楽しむための豆知識と共に、ご自身の生活が見える記事を執筆しておられます。非常に読みやすい文体で、ネット記事のお手本といえるようなブログとなっています。

 

yuchanel.hatenablog.com

 

8つ目に紹介するのは「YUチャンネルブログ」です。カメラを中心に、生活の役に立つガジェットを細かく紹介している記事が特徴となります。ガジェットだけでなく、生活や旅行などご自身が経験した内容も見られるのが特徴です。 

 

lifehackhack.hatenadiary.jp

 

9つ目にご紹介するのは「NO LIFEHACK, NO LIFE.」です。健康・美容・旅行など細かいカテゴリーが特徴で、その中でも「遊び」と変わり種のようなカテゴリーもあります。自分にあったカテゴリーを見つける楽しさのあるブログです。

 

terakappa.hateblo.jp

 

最後にご紹介するのは「てらかっぱのノート」です。「大分を代表するブロガーになりたい」という目標を掲げており、大分県にかんする情報が多く掲載しております。はてブが多い記事も掲載しているため、参考記事を共有して切磋琢磨するのも〇!

 

今回のご紹介は、以上となります。今後とも登録いただいた方を1~2週間に一度はご紹介していきますので、よろしくお願いします! 

 

また、該当人数の中に入っていないかもと思われる方は、コメント等にてリアクションいただければ幸いです。

 

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