ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

僕が仕事をして出会った「オジサン」の話

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1・

僕は今のところ、ライターなんて普通の人が選ばない職業を選択している。
ですが、以前は塾講師として働いていた。僕が就職活動していたのはリーマンショック真っ最中で、同級生はあえて仕事につかず任意で留年するという、訳のわからない処置まで現れた。

とりあえず、僕は小説や脚本を書きたいという気持ちはあったので、そちらと平行してお金が得やすい塾講師という道を選択。

その中で学生演劇を書いて、さらに県内の市民演劇の脚本を執筆。そこまでやって、地元で執筆業のつながりも生まれたかと思うと、割とそうでもなかった。

やはり、脚本だけで食べていくのは難しい上に、ライターという仕事を理解してもらうのは至難だった。

その点にかんしては、僕の努力が必要な部分である。しかし、僕を否定したり避ける人の中には、経験則を語るばかりで、結局は周りの意見を取り入れようとする意思が薄かった。少なくとも、演劇や仕事で話をしていて、僕はそのように感じていた。


2・

脚本や仕事の活動する中で、僕はさまざまな人に出会った。そのすべてが悪い人では、もちろんない。しかし、特に多かった傾向を挙げておかないと、僕の頭の方が爆発して血管が無くなりそうになる。

僕が相性悪いと思う人に共通点するのは、経験則の押し付けである。

この論はネットなどでも言われていて、辟易とするのであえて挙げようとは思わない。その代わり、僕が体験したことを綴ろうと思う。

先ほども書きましたが、脚本だけでは難しいと思ったと同時に、以前働いていた職場で一生働けるビジョンは描けなかった。

塾講師なんて職業は、学校の先生ばりにカリキュラムが決まっていて、昼から夜まで働き、さらに集中講習をまである。その職場で40代、50代を迎えた人生を想像できるだろうか?

そこで、ライターという道を模索すると同時に、一応就活なんてものをやった時期がある。前職のこともあって、教育業界からアプローチがあった。あまり望む形ではなかったけれど、事務職が中心としていうこともあって受けてみた。

面接の機会をいただいたのは個人塾で、事業拡大に併せて人を雇うことになっていたようだ。その塾へ面接に伺うと、40代後半から50代と思われる人と面接することになった。

僕は履歴書に、一応脚本の経歴も書いておいた。不必要だとは思ったけれど、経歴なので書いておいた。
それを見せると、まず「脚本書いてたんだ」と聞かれた。正直にそうですと答えると、その面接官は、僕の脚本の履歴にバツをつけた。

「これは関係ないね」

僕の履歴は、オジサンのその一言で終わった。確かに、塾の事務業に脚本は関係者ない。だが、バツをすることにいみはあるのだろうか。僕にはわからなくて、その時点で就職の2文字は消えていた。

その後も面接官は、僕に「何科目できる」とか「ほんとにできるの?」しか聞かなかった。終いには「また脚本書くんじゃない?」とか聞くので、あまりにバカバカしくなって僕は辞退を申し出て塾を後にした。

3・

帰り道の電車で、僕は先ほどのオジサンのことを考えていた。考えたところで回答が見つかるわけではないのだけど、虚脱感というか、泣きたい訳でもないのに、なんか涙が止まらないような……。頬を血が這うように、滴が垂れる感覚だった。

生きた時代が違うのだから、価値観は違って当然である。でも、だからってあまりにもというか、僕は人から人へ「伝達する」ことが死んでいるのだと思った。数々のノウハウが、この日本では生まれてのたれ死んでいるのだ。それが浮浪者であったり、派遣という形になり、さらには引きこもりを生み出しているのだと思った。

別に、無理に分かり合う必要はないと思う。会社は友達が集まる場所ではなくて、仕事をする場所なのだから。
でも、オジサンはどうなのだろうか。部下に自分の思想という名の踏み絵を行って、その後飲みで仲良くなって、自分の分身のような部下を作りたがる。ある意味、その方が「トモダチ」ではないだろか。もしくは、部下というミームを作りたがっているとしか思えない。

4・

現代では、若者の3年以内の離職率が3割強で、今だと4割近いかもしれない。そこには、やはり世代間の齟齬は発生していると思う。

その影響で、心理カウンセラーなるものが流行っていようであるが、ここには若者だけではなくて、若者がわからなくて困っている上司もいるそうだ。

ここで思うのは、お互い無理に理解し合おうとするから問題が出ているのではないかと思う。言ってしまえば、会社という空間の「圧力」みたいなものだろうか。それならば、もういっそのこと会社なんて空間を止めてしまえばいいのに。僕はそう思う。

別の記事で書いたこともあるのだが、オフィスを捨てて全社員をフリーにした企業がある。オフィスがなくても社員は働き、むしろ家事などに積極的に参加できてメリットも大きかったようだ。

(参考記事)

もちろん、オフィスのない会社を「会社」として成立させるなど、法律面での整備は整っていない。課題は多いけれど、会社内でギスギスするぐらいなら、オフィスなんて捨ててしまったほうが楽なのではないだろうか。

こんなことを書くと「人を避けている」、「会社に勤めないなんておかしい」と反論する人もいるだろう。しかし、僕にとってもっと異常なのは安定して働けないことと、人間関係に囚われて○✖️論を無限ループで続けることである。

5・

僕はいち早く、○✖️論の輪から抜け出したい。何が正しいとか、何が間違っているかなんて、この21世紀で考えてなんの意味があるのか。僕にはあまりわからない。

だって性別にしてもニュートラルな人も出てきて、さらに夫婦別姓の意見も出ている。何でも自由にしろと言いたいのではなくて、自分たちが「〜世代だ」なんて縛られて、人間関係壊して、仕事できないとかナンセンス以外の何物でもないと思う。

別に僕は、オジサンを否定したいわけではないし、自分を含めた若者を擁護するつもりはない。僕が言いたいのは、何かが正解で、何かが間違っているという○✖️論を止めてほしい。
そのために、個人で選択して、個人が後悔のないように死んでいく社会になればいい。ただ、それだけであると思う。