ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「今」を生きる ~ペット専門店のオーナー編①~

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僕は知人の紹介で、とある人と会う約束を取り付けてもらった。元々は、僕がパーソナリティをしているラジオに出てもらおうと考えていたのだが、その話ではなくて純粋に「会いたい」と思ったので会うことにした。

 

落ち合う場所は、街中にあるチェーンカフェ店。平日の木曜日、午後2時に会う約束になっていた。こんな平日のお昼間に時間が取れる人とはどんな人だろうかと思っていた。僕は15分前に待ち合わせ場所に向かうと、今回お会いする人との橋渡しをしてくれた知人がテラスで待っていた。僕も飲み物を注文してから、知人の元へ向かった。

 

僕が会いたいと思った人は、その知人が勤めるペット専門店のオーナーとのことだった。僕のイメージするオーナーには2種類ある。

前者はバリバリで仕事のことばかり考える人。後者は何か目的があって仕事をし、自分は自由に動くタイプの人。木曜の平日に、こんな所属不明のライターに会おうと言っていただけるのだから、奇特な自由人なのだろうと僕は思っていた。

 

待ち合わせの時間になると、ダウンベストにジーパンで、明るめの金髪に染めた男性が僕たちの元に近づいてきた。その男性をみて知人は「おつかれさまです」と声を掛ける。ということは、この男性がペット専門店のオーナーだろう。僕も立ち上がり簡単な挨拶をした後、席に座した。

 

オーナーさんは他県から移住してきた人のようだ。元々はペット飼育に関する学校で講師をしていたようであるが、講師業を止めて自分のお店を持つに至ったようである。


まだ30代にもかかわらず、自らお店を持って利益を出すことに驚いたのだが、話していく内にオーナーさんも僕の職業にも驚きを隠せなかったようである。どうも、今住んでいる県に来てから「ライター」なんて仕事をしている人や、僕のような価値観を持った人に出会うことはなかったようだ。

 

僕は質問に答えながら、ライターとして何社か契約して記事を書く仕事をしているのか、地方から発信するラジオのパーソナリティをやってみたり、自ら文章教室を開いたりしていることを話した。その話を聞いて、オーナーさんは「現代的だよね」という風に言ってくれた。

 

オーナーさんもさまざまな仕事をやった上で、現在のペット専門店オーナーに行き着いたようである。その間もさまざまな仕事をしていたようだが、そのとき「働いているけれど、生きているとは違う」と思い至ったようである。

 

昔だと「人生とは仕事である」という言葉は、よく使い古されたクリシェだと思う。しかし、現代だとそのようにはいかない。そもそも、仕事を提供する会社自体が弱っているのだから。その会社が人の一生を担保できる時代でもないし、子供を産んでも育児と仕事の両立を阻害する場所になることだってある。そんな会社に、どうして骨を埋めることができるのだろうか。オーナーさんの語る姿は、横柄でも何でもなかった。まさに、現代の人が思うことをただ言葉にしていた。

 

オーナーさん自身はフリーランスとかではないけれど、ペット専門店だけでなくペットのしつけや世話をする仕事いくつか展開している。どこか一か所だけに絞るのではなくて、色んな仕事をして「自分のしたいこと」のために仕事をしている。そんな風にオーナーさんは語ってくれた。オーナーさんが僕に対して「現代的だね」と言っていただいたのと同じように、僕もオーナーさんの生き方は「現代的」だと思った。

(後半に続く)

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本の強みは問いかける力 ~余白の精神に基づく書き方~

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先日、私がよく拝読している「かんどー」様のブログにてこのような記事があった。

 
 
週刊誌にご自身のブログが紹介されたとのことだけれど、素直に羨ましいと思った。よく世間では「本はオワコン」や「出版業界は斜陽」という話を聞くけれど、本や雑誌が持つ力は大きい。なんで大きいかと言うと、編集された内容だけではなくて付加価値が付いているからだと思う。
 

本が持つ価値とは「移動」と「伝達」

 
「本の方が温かみがある」とかではなくて、本がひとつ市場に出るだけで多くのお金が動く。編集するために人も動く。「本はお金が掛かる」というけれど、それは当然である。多くの人の手が関わり、1冊の本になるのだから。このやり方は古臭くて無意味なように感じるかもしれないけれど、本に温かみを感じるのは多くの人の手が加わっているからだと僕は思う。
 
もちろん、本なのだからそこに記載してある情報には価値が求められる。ただ、その情報というものの質には違いがあるような気がする。
 

「インターネット」と「本」における情報の質の違い

 
インターネットの情報は、別の言い方をすれば「解答」だと考えている。インターネットで検索をする人は、自分がほしい情報を求めて検索をかける。自分が求めるキーワードに沿ってページが表れ、ひとつの「解答」を提示する。
 
これに対して、本は「問い」を投げ掛けてくる。タイトルや内容に読書が求める情報があったとしても、それは完全なる解答ではない。あくまで読み手を意識した隙、みたいなものを僕は感じる。
 
日本には「余白」を意識した美意識がある。京都の銀閣にある「枯山水」思い起こしてほしい。枯山水は、水を使わずに波の流れる海を表現している。この波の表現も、海や水のすべてを表現していない。ただ波のようなイメージを石庭にて表現しているに過ぎない。それなのに、人はその庭から海を感じる。
 
この相手に想像を促す発想は、日本古来にある敬語にも通ずるものがあると思う。敬語は自分ではなくて、相手を立てることで自分の敬意を表現する。発議しているのは自分だが、相手を直接的に評価はしていない。これも「余白」を用いた自己表現になるのだと思う。もっと言えば、本と同じく相手に「問い」を投げることで自分のフィールドへと誘い出している。
 

僕はエッセイストのほうをやりたい

 
僕はこのブログで、あまりアフィリ色の強い内容を書こうとは思っていない。でも、好きかって書いたところで誰も見ないだろうし、情報としても落第者だろう。しかし、このような記事であっても誰かにとっての「解答」であり、何らかの「問い」を投げ掛けていきたいと思っている。
 
 
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読者登録者様31~40名ご紹介ページ ~ご登録ありがとうございます~

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 こんにちは、リュウ・ライタでございます。

 

いつもご覧になってくださっている方々、ありがとうございます。

 

本日は「ここだけのはなし」恒例となっております、読者登録者様の紹介コーナーです。

 

今回は、読者登録者様の31~40名様をご紹介させていただきます!

 

editman.hatenablog.com

 

本日のトップバッターは「エディットマンの編集旅路」さまです。編集にかんする記事が充実しており、ご自身でCGや素材なども作っております。素材やパソコン関係の記事だけでなくご自身の日常的な記事もあります。

 

udonmotch.hateblo.jp

 

2人目にご紹介するのは「単角子宮で二児の母(予定)」さまです。いま現在(この記事執筆中)に2人目のお子様を妊娠しており、執筆者様が妊娠して思うことを記事にしております。これからお子さんを身ごもる人には貴重な意見が揃っていますよ。

 

aqua-exp.hatenablog.jp

 

3人目にご紹介するのは「Aqua-Experience」さまです。私も書いているはてなブログでの活動記録や、どうすればアクセス数などが上がるのかしっかり記事にしているイメージがあります。私も勉強しなければと思うばかりの記事がたくさんです。

 

happymean.hatenadiary.com

 

4人目にご紹介するのは「happy mean ちょうど良い日常」さまです。ご自身の日常が切り取られた記事が多く見受けられます。それ以外にも、執筆者様が使って便利だったものや本の紹介もしてあるブログとなっております。

 

xkarasu.hatenablog.com

 

5人目にご紹介するのは「kobaの気になるトレンド情報♪」さまです。芸能関連の気になる記事を多く執筆しているように見受けられます。キャッチャーなタイトルが多く自然とクリックして読みたくなってしまいますね♪

 

fuura0925.hatenablog.com

 

6人目にご紹介するのは「fuuraの小部屋」さまです。はてなブログでは珍しく見える小説を執筆されております。私個人も小説や物語は好きなので、思わず読んでしまうブログのひとつとなっております。

 

aechanman.hatenablog.com

 

7人目にご紹介するのは「あえろぐ。偽の食欲labo」さまです。タイトルにもあるように「食」について書かれた記事が多くありお腹が減ってきそうです。「食」だけでなく啓発的な内容も読んででなるほど、と思う記事がたくさんあります。

 

yamaton15.hatenablog.com

 

8人目にご紹介するのは「大学生が中退してトップ営業マン」さまです。タイトルにもあるように大学を辞めた後に営業マンとして活躍されている方。その中で培われたノウハウは必見ものです!

 

komiyama0506.hatenablog.com

 

 

9人目にご紹介するのは「コミヤマの日記」さまです。備忘録とあるように、ご自身の日常や思ったことを多く綴っているのが特徴。その中に音楽や本のレビューがはさまれており、執筆者様の思想の根幹を垣間見れるようになっています。

 

kengo700.hatenablog.com

 

本日のラストを飾るのは「kengo700のブログ」さまです。機械系の学問を学ぶ学生らしく、パソコンやソフトを中心に記事が執筆されております。それ以外にもアニメやゲームなど故人の趣味にかんする記事も見受けられます。

 

今回は、これにて以上となります。読者登録していただきありがとうございます!

 

今後とも皆様、よろしくお願いします。

 

 

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生きた化石

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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。

 

以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。

 

担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。

 

**

 

今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。

 

カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。

 

とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。

馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。

 

町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。

 

***

 

僕は自分の趣味である模型を買いに、家電店に向かったある日のことだ。レジへ向かうと、3~4歳ぐらいの子どもを連れた女性が会計を先に行っていた。何にでも興味を示す子どもは、女性が目を離すとエスカレーターのほうへと向かおうとしていた。女性は何度も子どもの手を引いて、なかなか会計が終わらなかった。
 
僕は子どもの手を引いて、女性が会計をスムーズに終わるようにサポートした。会計が終わると、女性は軽く会釈だけしてそそくさとその場を去ってしまった。感謝の意などがほしかったわけではない。しかし、お礼や見知らぬ僕に手を引かれた子供に対して、あの女性はどんな説明をするのだろうか。それが気になっただけである。

今思えば、家電店で会った女性は生きた化石だったのかもしれない。これまでの歴史や習慣を堆積した結果生まれた、生きた化石なのである。地縁や顔見知りの人の中だけで生き、そのような人の生き方、そして将来になって公共施設で叫んでしまうような女性を見て育ったのではないなと夢想した。

別にアメリカのようになれとは言わないが、今までの地縁の中で育まれた村的社会ではなくて、本当の意味でも公共性が必要になってくるのではないかと思う、今日この頃である。
 
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久々に「小説を書こう」と思った日

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僕はどちらかと言えば、風景や情景を言葉にして執筆したいタイプである。小説しかり、脚本についてもさまざまな情報を咀嚼して吐き出す。なので、俗に言う「まとめ」サイトの記事を書くときに写真や引用を使うのは苦手で、探すぐらいなら書いた方が早い。
 
 
過去にも記事を書いたけれど、今ではさまざまな「まとめ」が生まれた。その影響で、ネットでは情報ではなくて「まとめ」の氾濫が起こり、その質は劣化の一途を辿った。ネット情報において、有効性がないにもかかわらず検索に引っかかるのも問題になる。そのため、グーグルでも検索のアルゴリズムや方法が変わりつつあるようである。
 
 
僕としても、何か検索を掛けてやたら「まとめ」サイトが出るのは面倒に感じていた。その点にかんしては歓迎すべきところだと思う。そもそも、SEOだけ考えられた文章は面白みに欠ける。
 
 
こちらの記事でも言及しているように、記事を見たときの「おもしろい」がないと意味がない。その有用性を見出せないのに、検索にまとめサイトばかり引っかかるのは釈然としなかったので、僕としては記事検索のあり方の変更はオッケーだと思っている。
 

ラジオとテレビ

 
僕が文章を書くとき大事にしたいのは、映像や写真で語りきれない「見れない部分」を文字化することである。見えない部分を文字化することが主張となり、新たな価値観になると僕は信じている。ネットの情報としては落第なのかもしれない。でも、そんな簡単に「情報」って手に入るものだろうか。
 
たとえば、ラジオとテレビである洗剤のCMが流れたとする。
 
テレビは映像と共に音もあり、伝える情報はたくさんある。これに対して、ラジオは音だけで伝える情報は少ない。
しかし、「伝わる」情報はラジオのほうが多い。ラジオは音に集中するので、聴く側は音以上に情報を得ようとする。このように考えると、ネット上に転がる「あたえる」予定の情報は、本当の意味で人に伝わっていないのではないだろうか。
 

小説という物語の可能性

 
最近は書けていないが、僕は映画が大好きである。この映画を観るとき、僕は「この映像はどのような文章で表現できるだろう」と考える。反対に「この映像は、どんな脚本の元で作られているのだろうか」とも考える。映画は文章になっている物語のひとつの解答であり、そのコンテクストを読み解くことに楽しみがある(もちろん、素直に俳優や女優見たさにみることもある)
コンテクストは映像にも文字にもならない部分である。しかし、その「見えない」部分を考えることが情報となって、人に伝えたいという動作になるのではないだろうか。
 
小説においても同じことが言えるのではないだろうか。小説においめ風景や人の動作が描かれるのは、その読み手の経験や知識を借りて脳内に映像を一緒に作り上げるからである。
 
小説の中にある物語には、もちろん筆者の主張や書いてあるストーリーラインは同じものがあるだろう。しかし、読む人の数だけその解釈や受け取り方は変わってくる。その自分の中に生まれる「意見」がぶつかること。人の間を伝達することで、はじめて情報となるのだろう。
 
僕は最近、ウェブ上でしか小説を書いていなかった。でも、今こそ本格的に小説を書いてみるのもいいかも。このネット上の情報を見ていて、そのように思った。
 
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ワガママと批評の間 ~書くことは「記録」だけを意味しない~

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村上龍を執筆した後……

 
先日は村上龍に対する記事を読んでいただき、非常にうれしかったです。ありがとうございます。
 
 
村上龍のことについて語ったあと、僕はこんな記事を発見した。
 
黒板をノートではなく写メで記録すれば、「先生の話に集中できる」「内容を漏らさす記録できる」「ノートに写すよりも圧倒的に早い(時間短縮)」と、いいことだらけです。デメリットとしては、授業中にパシャパシャと音がなるくらいかなと思います。
 

一方で、ノートをとる事の利点は「手を動かして書いた方が頭に入る」「先生にやっていますアピールができる」「後で見返せることができる(これは写メも同じ)」といった点が考えられます。

でもやっぱり、効率悪い!遅い!めんどくさい!今の時代にわざわざ紙に書く意味がわからない!とデメリットの方が多いのではないかと思うのです。そこで、あるとき学校で、ノートを取らずに黒板を写メで撮ろうと思いました。

でも、これは認められませんでした。「何言ってんの?」レベルです。そもそも学校には携帯を持ち込んではいけませんでした。……学校って、おかしい。「ダメなものはダメ」というのがその理由です。

https://news.careerconnection.jp/?p=21114

 
書いてあることにどうこう言うつもりはないし、頭ごなしに批判するつもりはない。ただ、コメント欄を見ると中々に荒れている様子だった。
 
確かに、書く側の立場からすれば書くことの本質は「記録」ではなくて「整理」である。
ネット記事ならば、本数も本数であるため骨組み作成から執筆までパソコン上で行う。しかし、小説や脚本を執筆するときはノートに整理や案出し、骨組み作成を必ず行う。自分が整理できていないもので、人に理解を促したり「おもしろ味」を提供できるなんて、僕には絶対に無理である。かの村上龍氏も「希望の国エクソダス」を書く際に、膨大な取材ノートを取っていたことは、有名な話である。
 
先ほどの記事から教訓を得るのであれば、情報を共有しているようで、実は自分にわかる形でしか解釈していない点だろうか。
 

アウトプットする意味

 
今ではSNSや、以前紹介した「キャプチャー」という文化が発達している。誰でも簡単に情報を発信して、誰でも共有できる。これは大いに歓迎していいだろう。以前、こちらの記事でも僕はキャプチャー文化について書いている。
 
 
しかし、提供する側となったとき「私はこれがおもしろかった」、「これはためになった」という主観で物事の伝達が行われていることは、問題点である。
自分が感じた主観でしか物事が語られないので「相手がどう見るか」という点が欠如していまう。書く行為は、この「他者の目」があったとしてもわかる形に置き換えることである。
 
このように書くと、黒板を写メる全国の学生から「見るのは自分だけ」という反論が来るかもしれない。ならば、その写メを今の自分が理解できたとしても、未来の「自分」は理解できるのだろうか。
 
僕はできないと思う。
 
過去の自分も他者的な側面を持っており、また「キャプチャー」された情報ならばそこに「思考」は含まれない。ただの情報でしかないものに価値なんてない。情報は利用され、手垢に塗れ、人の間を通って初めて価値が生まれる。情報自体に価値や希少性があるのではなくて、他者との間に生まれるものが情報である。
 
直接批判はしないが、これが僕の「情報」や「書くこと」にかんする思考だと記録しておこうと思う。
 

厚切りジェイソンとの出会い

 
 
僕はつい最近まで塾講師の仕事もしていた。そのとき、学生から「厚切りジェイソン」という芸人がおもしろいと聞いた。
 
 
実際に検索してはじめて見かけた記事がこちらで、この記事はじめに挙げたものと違って思わず最後まで興味深く読んでしまった。
 
経歴を見ると、ただの芸人ではなくてIT系の企業に勤めている人のようだ。芸風はともかく、欧米人から見る日本のおかしいところの指摘や、批評するセンスが抜群だ。
 
 
 
この記事にあったツイートを見たけれど、これは以前僕も似たようなことを記事にしていた。もちろん、厚切りジェイソンのことを知らないときに書いたもので、この類似性に驚きをかくせなかった。
 
 

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たしかに、みんなが同じ場所にいて作業が流れるのは理想だろう。

しかし、今はパソコンでできる仕事も多いし、各家庭で事情も変化しつつある(男性サラリーマンだけで家庭のお金をまかなえるような時代ではないし、父子・母子家庭、介護をしている家庭など)。同業者の人のように、朝に体が動かさなくて十分な仕事に就けない人もいるだろう。

なのに、まるで学校のようにみんなが決まった時間に一斉に会社にへ行くというのも、わりと不効率なんじゃなかろうな。人材確保したいと言っている割には、会社の「仕事なんだからなんとかしろ」という、体育会系的な精神論が見え隠れして嫌になる。その結果、今やワーカーホリックや自殺者が後を絶たない現場があるわけだ。

ダメ人間のダメな発想 - ここだけのはなし

 

別に自分の意見が正しいことを言いたいのではなくて、はじめに挙げた社畜女子高生と厚切りジェイソンの記事の差は何だろうか。やはり、というか皮肉な話「書く力」が明暗を分けたのではないだろうか。
 

批判は自己主張するための道具ではない 

 
前者の記事では、やはり自分が手中したいことしか盛り込まれていない。僕としてもみんなが学校に通う必要性や成績評価には是非を唱えるべきだと思う。
しかし、社畜女子高生の記事では自分の行為が「どれだけ正しいのか」という主張しかない。しかも「これっておかしいよね」という半ば決め付けにかかるような書き方も気になる。他者にとって「どれだけメリットがあるか」、「これは正当な意見です」という、第三者に対する提示がない。そもそも、学校教育にかんする指摘が残念ながらズレている。
 
これに対して後者は、筆者自身の考えに基づいて、現代社会が抱える問題に対して指摘を加えている。質問者からの解答という形になっているが、質問に対するアンサーがウィットで批判に富んでいる。
普通に考えれば「遅刻なんて許されない」という日本的な風潮がある。しかし、厚切りジェイソンは欧米育ちなので、日本の全体主義や同調主義に対する違和感を唱えやすく、また「遅刻にうるさいのにダラダラ残業はいいんだね」と別の価値観を提供している。自分の立場から日本の風潮にどれだけ斬り込んでいいのかも心得ている気がする。前者の記事と比べると、明らかに自分が「何を提供できるのか」という部分を考えている。
 
批評と言えば、みんな毛嫌いするというか、非常に嫌なイメージを浮かべる人が多い。しかし、批評とは本来お互いのメリットを探し出す作業である。決して自分の主張の正しさを証明するものではない。お互いのメリットを探す、希望ある行為なのだ。しかし、その多くが閉じている上、未だに精神論で終わってる感じがある。
 

日本にもあった批判精神の源流 

 
日本では、残念ながら批評という文化は根付いていないだろう。過去には敬語という言葉で、相手を「いなす」ことに長けた人は多くいた。しかし、どれだけの人が敬語の技術を身につけているだろうか。

それだけでなく、日本人は日記にて個人の感情を色濃く表現してきた。他国では日記というのはログ代わりのものであることが多く、過去に随筆や日記が文学として興隆したのは日本ぐらいなのだとか。

更に言えば、日本古来から存在して日曜の夕方を飾る笑点も批判精神に富んでいる。洒落っ気や風刺が生まれたのも、舞台や文学の世界が元となっているものである。もっと時代を辿れば、鎌倉期などに栄えた説話集や奈良~平安期の歌物語には、男女や貴族の交友を洒落っ気(=批評)によって表現していた。
 
しかし、残念ながらその両方の文化は衰退の危機にある。日本人が唯一と言っていいほど「批評眼」を鍛える場であった敬語社会と日記の消失は、現代人の情報に対する捉え方・価値観に通ずるものがある気がする。
 
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僕が傾倒する作家

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ここ最近、妙にブログで書くネタがヘイト気味というか、ちょっと荒々しい気がした。自由に書く分には問題ないと思うけれど、やはり読んでもらって「価値がある」と思っていただくものは提供すべきだと思っている。僕のこの発想というか、書くことで迷った時に指針となるのは、いつも「村上龍」氏である。

 

春樹じゃないです、龍です

 

村上龍」という名前を言えば、多くの人が「春樹じゃないの?」と答える。春樹氏は芥川賞を受賞しておらず、村上龍氏のほうは受賞しているのに、この差は何だと思ったりするのだけれど。兎にも角にも、賞の有無にかかわらず、僕は村上龍氏の考えや文章が好きだ。

 

村上龍は青少年のドラッグとダークな部分、さらに生き抜くことへの希望を描いた「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞し、その後も世の中で生まれた社会問題を軸に「コインロッカーベイビー」や「希望の国エクソダス」などの作品が有名かと思う。個人的には映画と共に物語が進む「映画的小説集」も好きだ。でも、はじめから村上龍が好きだったわけではない。村上龍を好きになったのは、僕が師匠と読んでいる人に勧められたからだ。

 

僕が大学4回生のとき、リーマンショックの煽りを受けて職なんてない時期だった。就職先も決まらず、僕はとあるカフェのマスターの元ばかり行っていた。そのマスターは、ある雑誌の編集長を行った経歴もあるベテラン。少なからず、書くことを仕事にしたいと思っていた僕は、その人から仕事を紹介してもらおうか、とか就職口になるようなことばかり考えていた。

 

そんなとき、渡された一冊が村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だった。僕はその内容に驚いたこともあったけれど、その文章のリアリティに敬服するばかりだった。自分の目に映ったものを、まるでそのまま文章にする感覚が、僕には新鮮で、今まで読んだどの文章にも当てはまらないものがあった。

 

僕が大学4回生の頃なんて、何も考えていなかったし、ましてこのように真面目に文章を書くこともなかった。そんな僕が就活の時期になって、編集や文章にかんする仕事を目指すというのも、なんか不思議というか、ある種不気味なことなんだと思った。

 

よくよく考えれば、大学3回生になって、急に「就活しなきゃ」とか「あの仕事に就きたい」というのも、よく考えればおかしいことなんかもしれない。今になってみれば思い付きのようなものだし、それでご飯を食べていくことを想像するのは、まるで雲の上を歩くことと同じぐらい、危なっかしいというか不可能に近いことなんだと思う。

 

 

就活や職を考えるときでも、軸になってくるのは将来のことだろう。でも、今の時代だと自分が就いている職がずっと続くかなんてわからないし、自分が本当に面接やたった3か月や半年程度仕事のことを調べただけで、本当にその仕事ができるかどうかなんてわからない。わかるはずもないし、企業側だってわかったつもりの学生なんてほしいとは思わないと思う。

 

必然性の有無

 

村上龍の作品は、他の芥川賞受賞作品と比べると、文学性という点で毛色が違うと思う。しかし、その圧倒的な筆力と取材力、そして生きることへの根源的な考えは彼にしかないものだ。

 

 

 彼は今でも闘うことを止めていない。僕としても、本当に自分たちが幸せだと思う環境を作り上げるまでは、この手を止めることはできないのだと思う。村上龍氏と同じ立場だなんて、恐れ多くて言えるわけないけれど、少なくとも、村上龍氏が発信し続けたことを僕なりの形に変換して闘いたい。

 

では、僕が書くときに、なぜ矛先が「オジさん」に向いてしまうのか。

 

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もちろん、僕だってオジさんを敵にしたいわけではない。ただ、僕たちの時代とオジさんが築き上げた時代には違いがあり過ぎる。ならば、僕たちが新たな形や時代を形成し直す時期に来ているのではないだろうか。もちろん、すべてを否定するわけではなくて、自分たちの「笑い声」を届けるために書くことが必要なんだと思う。

 

 

 僕は好きで物書きをしているわけではない。よく「したいことを仕事にしていますね」と言われるけれど、どちらかと言えば自分に「できることでご飯を食べたいから書いている」というほうが正しい気がする。だから、自分からライターとか作家なんて名乗りたくない節もあるけれど、名前がないのも不便だから名乗っている感じである。

 

僕としても、ただ「つらいね」や「しんどいね」を文章にするつもりはない。もっと自分たちは「ここにいるんだよ」とか「こんな価値観だから生きていられるんだ」という、人の根源的なものを書いていきたい。それが僕の持ち合わせる、伝える必要性と価値を備える情報だと信じている。

 

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