「今」を生きる ~ペット専門店のオーナー編①~
僕は知人の紹介で、とある人と会う約束を取り付けてもらった。元々は、僕がパーソナリティをしているラジオに出てもらおうと考えていたのだが、その話ではなくて純粋に「会いたい」と思ったので会うことにした。
落ち合う場所は、街中にあるチェーンカフェ店。平日の木曜日、午後2時に会う約束になっていた。こんな平日のお昼間に時間が取れる人とはどんな人だろうかと思っていた。僕は15分前に待ち合わせ場所に向かうと、今回お会いする人との橋渡しをしてくれた知人がテラスで待っていた。僕も飲み物を注文してから、知人の元へ向かった。
僕が会いたいと思った人は、その知人が勤めるペット専門店のオーナーとのことだった。僕のイメージするオーナーには2種類ある。
前者はバリバリで仕事のことばかり考える人。後者は何か目的があって仕事をし、自分は自由に動くタイプの人。木曜の平日に、こんな所属不明のライターに会おうと言っていただけるのだから、奇特な自由人なのだろうと僕は思っていた。
待ち合わせの時間になると、ダウンベストにジーパンで、明るめの金髪に染めた男性が僕たちの元に近づいてきた。その男性をみて知人は「おつかれさまです」と声を掛ける。ということは、この男性がペット専門店のオーナーだろう。僕も立ち上がり簡単な挨拶をした後、席に座した。
オーナーさんは他県から移住してきた人のようだ。元々はペット飼育に関する学校で講師をしていたようであるが、講師業を止めて自分のお店を持つに至ったようである。
まだ30代にもかかわらず、自らお店を持って利益を出すことに驚いたのだが、話していく内にオーナーさんも僕の職業にも驚きを隠せなかったようである。どうも、今住んでいる県に来てから「ライター」なんて仕事をしている人や、僕のような価値観を持った人に出会うことはなかったようだ。
僕は質問に答えながら、ライターとして何社か契約して記事を書く仕事をしているのか、地方から発信するラジオのパーソナリティをやってみたり、自ら文章教室を開いたりしていることを話した。その話を聞いて、オーナーさんは「現代的だよね」という風に言ってくれた。
オーナーさんもさまざまな仕事をやった上で、現在のペット専門店オーナーに行き着いたようである。その間もさまざまな仕事をしていたようだが、そのとき「働いているけれど、生きているとは違う」と思い至ったようである。
昔だと「人生とは仕事である」という言葉は、よく使い古されたクリシェだと思う。しかし、現代だとそのようにはいかない。そもそも、仕事を提供する会社自体が弱っているのだから。その会社が人の一生を担保できる時代でもないし、子供を産んでも育児と仕事の両立を阻害する場所になることだってある。そんな会社に、どうして骨を埋めることができるのだろうか。オーナーさんの語る姿は、横柄でも何でもなかった。まさに、現代の人が思うことをただ言葉にしていた。
オーナーさん自身はフリーランスとかではないけれど、ペット専門店だけでなくペットのしつけや世話をする仕事いくつか展開している。どこか一か所だけに絞るのではなくて、色んな仕事をして「自分のしたいこと」のために仕事をしている。そんな風にオーナーさんは語ってくれた。オーナーさんが僕に対して「現代的だね」と言っていただいたのと同じように、僕もオーナーさんの生き方は「現代的」だと思った。
(後半に続く)
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本の強みは問いかける力 ~余白の精神に基づく書き方~
先日、私がよく拝読している「かんどー」様のブログにてこのような記事があった。
本が持つ価値とは「移動」と「伝達」
「インターネット」と「本」における情報の質の違い
僕はエッセイストのほうをやりたい
読者登録者様31~40名ご紹介ページ ~ご登録ありがとうございます~
こんにちは、リュウ・ライタでございます。
いつもご覧になってくださっている方々、ありがとうございます。
本日は「ここだけのはなし」恒例となっております、読者登録者様の紹介コーナーです。
今回は、読者登録者様の31~40名様をご紹介させていただきます!
本日のトップバッターは「エディットマンの編集旅路」さまです。編集にかんする記事が充実しており、ご自身でCGや素材なども作っております。素材やパソコン関係の記事だけでなくご自身の日常的な記事もあります。
2人目にご紹介するのは「単角子宮で二児の母(予定)」さまです。いま現在(この記事執筆中)に2人目のお子様を妊娠しており、執筆者様が妊娠して思うことを記事にしております。これからお子さんを身ごもる人には貴重な意見が揃っていますよ。
3人目にご紹介するのは「はてなブログでの活動記録や、どうすればアクセス数などが上がるのかしっかり記事にしているイメージがあります。私も勉強しなければと思うばかりの記事がたくさんです。
」さまです。私も書いている
4人目にご紹介するのは「happy mean ちょうど良い日常」さまです。ご自身の日常が切り取られた記事が多く見受けられます。それ以外にも、執筆者様が使って便利だったものや本の紹介もしてあるブログとなっております。
5人目にご紹介するのは「kobaの気になるトレンド情報♪」さまです。芸能関連の気になる記事を多く執筆しているように見受けられます。キャッチャーなタイトルが多く自然とクリックして読みたくなってしまいますね♪
6人目にご紹介するのは「fuuraの小部屋」さまです。はてなブログでは珍しく見える小説を執筆されております。私個人も小説や物語は好きなので、思わず読んでしまうブログのひとつとなっております。
7人目にご紹介するのは「あえろぐ。偽の食欲labo」さまです。タイトルにもあるように「食」について書かれた記事が多くありお腹が減ってきそうです。「食」だけでなく啓発的な内容も読んででなるほど、と思う記事がたくさんあります。
8人目にご紹介するのは「大学生が中退してトップ営業マン」さまです。タイトルにもあるように大学を辞めた後に営業マンとして活躍されている方。その中で培われたノウハウは必見ものです!
9人目にご紹介するのは「コミヤマの日記」さまです。備忘録とあるように、ご自身の日常や思ったことを多く綴っているのが特徴。その中に音楽や本のレビューがはさまれており、執筆者様の思想の根幹を垣間見れるようになっています。
本日のラストを飾るのは「kengo700のブログ」さまです。機械系の学問を学ぶ学生らしく、パソコンやソフトを中心に記事が執筆されております。それ以外にもアニメやゲームなど故人の趣味にかんする記事も見受けられます。
今回は、これにて以上となります。読者登録していただきありがとうございます!
今後とも皆様、よろしくお願いします。
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生きた化石
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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。
以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。
担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。
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今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。
カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。
とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。
馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。
町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。
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久々に「小説を書こう」と思った日
ラジオとテレビ
小説という物語の可能性
ワガママと批評の間 ~書くことは「記録」だけを意味しない~
村上龍を執筆した後……
黒板をノートではなく写メで記録すれば、「先生の話に集中できる」「内容を漏らさす記録できる」「ノートに写すよりも圧倒的に早い(時間短縮)」と、いいことだらけです。デメリットとしては、授業中にパシャパシャと音がなるくらいかなと思います。
一方で、ノートをとる事の利点は「手を動かして書いた方が頭に入る」「先生にやっていますアピールができる」「後で見返せることができる(これは写メも同じ)」といった点が考えられます。
でもやっぱり、効率悪い!遅い!めんどくさい!今の時代にわざわざ紙に書く意味がわからない!とデメリットの方が多いのではないかと思うのです。そこで、あるとき学校で、ノートを取らずに黒板を写メで撮ろうと思いました。
でも、これは認められませんでした。「何言ってんの?」レベルです。そもそも学校には携帯を持ち込んではいけませんでした。……学校って、おかしい。「ダメなものはダメ」というのがその理由です。
ネット記事ならば、本数も本数であるため骨組み作成から執筆までパソコン上で行う。しかし、小説や脚本を執筆するときはノートに整理や案出し、骨組み作成を必ず行う。自分が整理できていないもので、人に理解を促したり「おもしろ味」を提供できるなんて、僕には絶対に無理である。かの村上龍氏も「希望の国のエクソダス」を書く際に、膨大な取材ノートを取っていたことは、有名な話である。
アウトプットする意味
自分が感じた主観でしか物事が語られないので「相手がどう見るか」という点が欠如していまう。書く行為は、この「他者の目」があったとしてもわかる形に置き換えることである。
厚切りジェイソンとの出会い
業務に支障が出ていなければちょっとした遅刻は問題ないダロウ?遅れた分より定時過ぎでも残っているダロウし。日本はスタート時間に厳しいのにエンド時間にルースのは #WHYJAPANESEPEOPLE やわ
— 厚切りジェイソン@書籍発売 (@atsugirijason) 2016年2月24日
https://t.co/aiZMRTqB00
たしかに、みんなが同じ場所にいて作業が流れるのは理想だろう。
しかし、今はパソコンでできる仕事も多いし、各家庭で事情も変化しつつある(男性サラリーマンだけで家庭のお金をまかなえるような時代ではないし、父子・母子家庭、介護をしている家庭など)。同業者の人のように、朝に体が動かさなくて十分な仕事に就けない人もいるだろう。
なのに、まるで学校のようにみんなが決まった時間に一斉に会社にへ行くというのも、わりと不効率なんじゃなかろうな。人材確保したいと言っている割には、会社の「仕事なんだからなんとかしろ」という、体育会系的な精神論が見え隠れして嫌になる。その結果、今やワーカーホリックや自殺者が後を絶たない現場があるわけだ。
ダメ人間のダメな発想 - ここだけのはなし
批判は自己主張するための道具ではない
日本にもあった批判精神の源流
更に言えば、日本古来から存在して日曜の夕方を飾る笑点も批判精神に富んでいる。洒落っ気や風刺が生まれたのも、舞台や文学の世界が元となっているものである。もっと時代を辿れば、鎌倉期などに栄えた説話集や奈良~平安期の歌物語には、男女や貴族の交友を洒落っ気(=批評)によって表現していた。
僕が傾倒する作家
ここ最近、妙にブログで書くネタがヘイト気味というか、ちょっと荒々しい気がした。自由に書く分には問題ないと思うけれど、やはり読んでもらって「価値がある」と思っていただくものは提供すべきだと思っている。僕のこの発想というか、書くことで迷った時に指針となるのは、いつも「村上龍」氏である。
春樹じゃないです、龍です
「村上龍」という名前を言えば、多くの人が「春樹じゃないの?」と答える。春樹氏は芥川賞を受賞しておらず、村上龍氏のほうは受賞しているのに、この差は何だと思ったりするのだけれど。兎にも角にも、賞の有無にかかわらず、僕は村上龍氏の考えや文章が好きだ。
村上龍は青少年のドラッグとダークな部分、さらに生き抜くことへの希望を描いた「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞し、その後も世の中で生まれた社会問題を軸に「コインロッカーベイビー」や「希望の国のエクソダス」などの作品が有名かと思う。個人的には映画と共に物語が進む「映画的小説集」も好きだ。でも、はじめから村上龍が好きだったわけではない。村上龍を好きになったのは、僕が師匠と読んでいる人に勧められたからだ。
僕が大学4回生のとき、リーマンショックの煽りを受けて職なんてない時期だった。就職先も決まらず、僕はとあるカフェのマスターの元ばかり行っていた。そのマスターは、ある雑誌の編集長を行った経歴もあるベテラン。少なからず、書くことを仕事にしたいと思っていた僕は、その人から仕事を紹介してもらおうか、とか就職口になるようなことばかり考えていた。
そんなとき、渡された一冊が村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だった。僕はその内容に驚いたこともあったけれど、その文章のリアリティに敬服するばかりだった。自分の目に映ったものを、まるでそのまま文章にする感覚が、僕には新鮮で、今まで読んだどの文章にも当てはまらないものがあった。
僕が大学4回生の頃なんて、何も考えていなかったし、ましてこのように真面目に文章を書くこともなかった。そんな僕が就活の時期になって、編集や文章にかんする仕事を目指すというのも、なんか不思議というか、ある種不気味なことなんだと思った。
よくよく考えれば、大学3回生になって、急に「就活しなきゃ」とか「あの仕事に就きたい」というのも、よく考えればおかしいことなんかもしれない。今になってみれば思い付きのようなものだし、それでご飯を食べていくことを想像するのは、まるで雲の上を歩くことと同じぐらい、危なっかしいというか不可能に近いことなんだと思う。
あまり先のことは考えていないんですよね。今とにかくやっていることの質をなるべく上げるということしか考えていない。…僕よく分からない、なぜみんな将来のことを聞くのかなあと思うんですよね。
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月24日
就活や職を考えるときでも、軸になってくるのは将来のことだろう。でも、今の時代だと自分が就いている職がずっと続くかなんてわからないし、自分が本当に面接やたった3か月や半年程度仕事のことを調べただけで、本当にその仕事ができるかどうかなんてわからない。わかるはずもないし、企業側だってわかったつもりの学生なんてほしいとは思わないと思う。
必然性の有無
村上龍の作品は、他の芥川賞受賞作品と比べると、文学性という点で毛色が違うと思う。しかし、その圧倒的な筆力と取材力、そして生きることへの根源的な考えは彼にしかないものだ。
楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。村上龍BOT
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月25日
彼は今でも闘うことを止めていない。僕としても、本当に自分たちが幸せだと思う環境を作り上げるまでは、この手を止めることはできないのだと思う。村上龍氏と同じ立場だなんて、恐れ多くて言えるわけないけれど、少なくとも、村上龍氏が発信し続けたことを僕なりの形に変換して闘いたい。
では、僕が書くときに、なぜ矛先が「オジさん」に向いてしまうのか。
もちろん、僕だってオジさんを敵にしたいわけではない。ただ、僕たちの時代とオジさんが築き上げた時代には違いがあり過ぎる。ならば、僕たちが新たな形や時代を形成し直す時期に来ているのではないだろうか。もちろん、すべてを否定するわけではなくて、自分たちの「笑い声」を届けるために書くことが必要なんだと思う。
作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、
— 村上龍 BOT (@murakamibot) 2016年2月25日
伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。
伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。村上龍BOT
僕は好きで物書きをしているわけではない。よく「したいことを仕事にしていますね」と言われるけれど、どちらかと言えば自分に「できることでご飯を食べたいから書いている」というほうが正しい気がする。だから、自分からライターとか作家なんて名乗りたくない節もあるけれど、名前がないのも不便だから名乗っている感じである。
僕としても、ただ「つらいね」や「しんどいね」を文章にするつもりはない。もっと自分たちは「ここにいるんだよ」とか「こんな価値観だから生きていられるんだ」という、人の根源的なものを書いていきたい。それが僕の持ち合わせる、伝える必要性と価値を備える情報だと信じている。
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