ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

世の中は、同じもので溢れている~時間のない現代人と消費されるばかりのコンテンツ~

久々に知り合いの物書きに会う

 

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http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-2163.html

 

 

先日、僕は自分が住んでいる地域で小説活動しているX氏と久々にお会いすることができた。その人はもともと、シナリオ出身だったが、そのシナリオの「おもしろさ」が買われて小説家になったようである。

 

小説家に転向してから、X氏に会うことはなかった。X氏は、2年前に僕が脚本を手がけた舞台を見に来てくれてから全く会うことはなかったので、喫茶店にて2時間以上も話し込んでしまった。その間に話題になったのは、小説という媒体や情報発信の在り方の代わり用であった。

 

X氏はシナリオ出身だが、始めは「とにかく小説を書きたい」というところから始まりである。その思いの元、技術を学んでいく内にシナリオを書くことになり、そして現在に至ることになった。もともと小説を「書きたい」というところから出発している人である。

 

でも、その日会ったときX氏は「千本桜って、ホントはすごいんですね」と僕に語りかけた。僕も存在は知っていたけれど、そこまではまっているという訳ではなかった。それからX氏は「ハニーワークスとか、今カラオケはボカロばかりですよ」と語ってくれた。最近はカラオケなんて行っていなかったが、アニソンばかりというのは知っていた。けれど、ボカロがそこまで広がっていることには驚いた。でも同時に、邦楽が売れない理由も何となくわかってしまった。

 

さらにX氏は「今は本当に小説が売れない。でも、千本桜とか見ていて動画の力や、二次創作の力って、現代ではあらがえませんね」という話もしてくれた。僕としてもそれは思うところがあって、X氏の話を聞いていて洋画の「シェフ」を思い出した。


あの「スカヨン」がチョイ役で出ている「シェフ」

 

 

cinema.pia.co.jp

 

「シェフ」という映画は割と沢山あるが、これはアメリカのスカヨンが出てくるつい最近のものである。この映画は、腕のいいシェフがグルメブロガーを敵にすることで職を失い、キャンピングカーにてアメリカ横断しながら、旅先で現地の人に食事を振る舞う映画である。このシェフが一人で再起するのではなくて、もちろんキャンピングカーを提供してくれる人がいると共に、自分の子どもが商売のヒントになる。

 

シェフの子どもはインターネットズブズブ世代で、どうすれば人が興味を惹くのか潜在的に知っている部分が大きかった。大人では到底思いつかないような手法やネットサービスを駆使することで、父親の移動型レストランを宣伝する立場となる。

 

この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。

 

 僕もコンテンツを利用して新たなコンテンツを生み出す「二次創作」の勢いはとどまるところを知らないと思うし、今の中学生ぐらいになればテレビよりもインターネットを見ている時間のほうが長いと話を聞いていて思うこともある。それに、絵や動画を作ることも簡単になっていて、誰もが表現者になれる時代なんだと、僕は思ったりする。


今求められるのは「素材」提供者

 

現代ではものを簡単に作れるコンテンツが出ている。ホームページもそうだし、写真や動画だってアイデア次第で創意工夫が見えるものがある。でもこれは、僕としては一種のファッションにしか思えないところもあるわけだ。
だってそれは、コンテンツを生み出せる「素材」提供者による「自由にどうぞ」という、いわば1つのコンテンツから派生した亜流でしかないからである。言ってしまえば、今の世の中は「二次創作」のようなもので溢れている、と言い換えることもできるはずだ。

 

これは別に個人に関した話ではなくて、邦画やドラマでも同じことが言える気がするわけだ。邦画やドラマを付ければ、何かのマンガ原作であることが大半である。今では6割強のドラマが、原作ありきなのではないだろうか。最近は「邦画がつまらない」なんて言われるが。

 

togetter.com

 

作る人がこのように視聴者に媚びるのも哀しいが、やはり現代のアニメやマンガなどが強い環境下で、実写による「共感」部分が少ないコンテンツを打ち出しても意味はないように感じてしまう。
単純に作り手の技術不足もあるが、受け手とのミスマッチという部分も大きいのだと思う。それと同時に、実写では今の「二次創作」という大きな流れにコミットしていないのだと思う。

 

例えば、アニメだと1つおもしろいものが発生すれば、誰かがそこから二次創作を始める。誰かが生み出した「アニメ」や「マンガ」は、二次創作しやすいコンテンツがたくさんある。さらに言えば、まっさらに想像された「絵」や「物語」は、真の意味で現実化していない。空想の世界である。その世界を自由にできる技術があるならば、してみたいと思う人もいるだろう。

 

これに対して実写はひとつの現実に関与しているもので、そこには1つの世界が宿っている。マネしようとしても、自分がその世界に関与する余地がない。
実写でこぞってマネをしていたものとすれば、昔で言えば「タイタニック」や「冬のソナタ」は顕著なのではないだろうか。印象的なシーンの再現やロケ地を回ることで、映画やドラマを見た人がその世界を楽しめた。

 

でも、今のドラマや映画はマンガという虚像の世界の焼き回しでしかない。それでどうやって「二次創作」を楽しめるのだろうか。マンガを使った映像化は、すでにテレビ局や映画スタッフが「二次創作」したものである。それを消費者が、また消費しようとは思わないだろう。

 

だからこそ、いまストーリーを作る人たちはシビアにも、そして二次創作意欲を湧き立てるようなシナリオ素材を作るしかないわけである。


良く考えれば……

 

お店などで流れる有線放送は、驚くほどアニメ主題歌やアイドルばかりである。でもこれらも、僕からすれば二次創作したもののように聞こえる。どれもが同じものばかりで、違いを見つけるほうがむしろ難しいように感じる。

 

もちろん僕がちゃんと聞けていないだけで、それ自体にはその良さがあるのだと思う。最近では「あさがきた」に使われたアイドルグループの主題歌は、僕は個人的に好きだった。すべてが悪いわけではない。問題なのは、その売れたものをずっと焼き回すことである。

 

別に二次創作が簡単や悪いと言いたいわけではない。X氏と話したように「千本桜」が生まれた文化は、新しい文化として認めないといけない。でも、それは結局のところ「初音ミク」という存在があったから生まれた文化である。
過去には「アムラー」や「ポッタリアン」などがいた訳で、これも一種の二次創作ではないのかなと、僕は思ったりする。言ってしまえば、二次創作とは自分が好んだ文化に対する一種の愛情表現なのかもしれない。そのレベルや発信の質が変わっているだけで、実は今も昔も同じことを繰り返しているのかもしれないと、僕は思ったりしないでもない。 


もっと言えば、僕たちが行っている創作というものも、元を正せば日本古来で生まれた源氏物語をはじめ、物語の始祖たちから見れば「二次」となってくる。どこから二次創作と見るのかという議論もあるだろうと思うが、平安から考えると小説なんてものは、何度も焼き回しを行ったすでに「オワコン」なコンテンツなのかもしれない。

 

・さいごに


文化には「生活」がにじみ出ているものだと、僕は思ったりする。そう考えると、生活に馴染んでいるインターネットという環境から「千本桜」が生まれるのは必然だったのかもしれない。

 

では、現代に立ち返ったとき、この「初音ミク」を始めとするさまざま派生した文化を、僕たちはいつまで消費すればいいのだろうか。現行の邦画・ドラマ事情に当てはめれば、「千本桜」からさらにムーブメントを起こすような文化は、生まれないと僕は思っている。「千本桜」はボカロからすでに創作されたもので、一種のムーブメントを生み出している。

 

ここからさらにムーブメントが起きるだろうか。これが問題なわけである。同じものをすき好むのはいい。でもそれをずっと消費続けることは、実は今の音楽業界の姿勢と同じこととなりかねないと思っていたりする。

 

僕もただ小説を書くのではなくて、この能力を「素材」として見てもらえるようなコンテンツ発信をしなければ、生きていけないと心底思っているわけである。

 

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祝‼ 読者登録40~50名さまブログ紹介記事

 

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ども、リュウ・ライタです。

 

ダメですね、いちど途切れるとなかなか復活できない。

 

プロへの移行を考えていても仕方ないので、

 

以前から続けていた読者登録者さまの

 

紹介にて復帰したいと思います。

 

今回は読者登録者40~50名さまに該当します。

 

それでは、どうぞ!

 

www.g-zas.info

 

今回の1人目は「おーまいがっ!」さまです。脱サラして経営者をされている方のブログになっています。ご自身のブログでも語られている喜怒哀楽の感情に沿って書かれるブログは、読んでいてスカッとするものがあります。

 

choipapa.hateblo.jp

 

2人目にご紹介するのは「choipapaのブログ」さまです。自営業でシステムデベロッパーというお仕事をされているとのことで、「自営」という部分に勝手ながら親近感を覚えているブログ様の1つです。これから記事数が増えることを期待しております。

 

yoneyasu.hatenablog.com

 

3人目にご紹介するのは「今日からできる節約・節約術 日記」様です。タイトルにあるように「節約」をテーマにした記事が多く、携帯電話の通信料やSIMに関することをしっかり解説しています。「携帯で困ったら!」というときにおすすめです。

 

katamekoime.hateblo.jp

 

4人目にご紹介するのは「固め濃い目」さまです。ご自身で言われているようい「日々」のことに焦点を当てた記事が多く、生活感が見えるブログ様です。今では熊本で起きた地震に関する記事も多く、思うところがある人は必読です。

 

mayou-hito.hatenablog.com

 

5人目にご紹介するのは「迷い日記」さまです。SEをされているとのことで、私の取引先の1人ではないかと個人的にビクビクしております。「迷い日記」さまも個人の趣味などを書くことが多く、ガンダムネタなどで仲良くしたいお一人です。

 

yukom222.hatenablog.com

 

 6人目にご紹介するのは「フリーランス主婦の2拠点ライフ」さまです。同じ職種の方と、このはてなブログにて始めてお会いした方かもしれません。個人的にお世話になっているブログ様で、フリーランスや主婦からの視点が見れるブログになっています。

 

pinchetakk.hatenablog.com

 

7つ目にご紹介するのは「PincheTakk」さまです。世界旅行をテーマにしたブログになっており、ブログ執筆者さまご自身が体験したことを記事として見ることができます。タイやベトナムなどアジア圏の記事が今アツイです!

 

inyoshoten.hatenablog.com

 

8人目にご紹介するのは「引用書店」さまです。タイトルの通り本を「引用」するという形でブログを執筆されている方です。その本の数は凄まじく、またバリエーションも豊富。あなたの「読みたい」が見つかるブログと言えるでしょう。

 

harenokunikara.hatenablog.com

 

9人目にご紹介するのは「晴れの国岡山から旅まちめぐり」さまです。三重から岡山に移住してからの日々を書いていることが多く、倉敷や瀬戸内芸術祭を訪れた記録が残っています。旅先の候補として考えるとき、見てみるのはいかがでしょうか。

 

summersunday.hatenablog.com

 

今回ラストを飾るのは「summersunday’s blog」さまです。映画や小説を始め、転職や婚活など執筆者さまの興味が惹かれるまま記事を書いております。その多岐にわたるテーマの中でも「飲み会の一発芸を考える」記事は、類を見ないかと思います。

 

はい、以上が今回の10名さまでした。

 

ほんとうに、更新が気まぐれすぎて申し訳ないのですが……。

 

ですが、登録いただく限りは始めたことなので。

 

紹介するまでは止めることはありませんので。

 

暖かい目で見ていただければと思います。

 

それでは、また。

 

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一本の糸

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衣服点で働くサトコは、誰ともわからない衣服を修繕する仕事をしていた。

 
ある日、一本のジーンズがやってきた。
 
直そうとしたが、青いジーンズに合う糸が無くて赤色を使うことになった。
 
ジーンズをサトコが直している間、持ち主のトオルは1人で公園を散歩していた。
 
トオルは普段美容師として働いており、その店にはよくミサが来ていた。
 
ミサはスナックで働いていて、公私ともに彼のお世話になっていた。
 
ミサがお店で働いているとき、コウジはかならず彼女を指名した。
 
コウジは妻とも別れ、寂しさからミサを指名することが多かった。
 
コウジは普段公園でクレープを焼いていて、その味は評判だった。
 
ミサはクレープの話をコウジから聞いていたので、友だちのサトコと一緒にちょくちょく通っていた。
 
サトコもクレープにはまり、休みの日に1人で買いに行くぐらいはまっていた。
 
ある日、サトコが公園へクレープを買いに来たときだった。
 
「……あっ」
 
サトコがクレープを買っていると、ジーンズを履いた男が近づいてくるのを見つけた。
 
そのジーンズには見覚えがあった。
 
あの日、合う色が無くて赤い色で縫ったジーンズ。
 
「えっと、僕の顔に何かついてます?」
 
サトコはおかしくて、つい笑ってしまう。
 
トオルはわからなかった。
 
わからなかったけれど、悪い気はしなかった。
 
「一緒に、いいですか?」
 
サトコはにっこりと、クレープを渡しながら答えた。
 
 
 
 

 

最近の若い人は「SEO対策」してある記事が嫌いらしい~ネット情報と広告の在り方~

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ども、不定期に更新しているリュウ・ライタです。不定期になっているのは、プライベートの兼ね合いもありますが、近々はてなプロへの変更も予定しているためです。
 
  • このブログ恒例となっている読者登録者様紹介ページも、せっかくならはてなプロにしてからがいいだろうなぁ。

 

  • 記事を大量に書くならはてなプロがいいだろうなぁ。
 
と、考えていると記事更新も少しあぐねいてしまう結果になっている次第です。
読者登録者様に関しては、3月中に1度は掲載するかもです。
 
でも、更新を控えてよかったこともある。
 
この記事にもあるように、私としてはネタも集まったと思うし、何よりネットデトックスができた気がする。ブログ外のことに注力して、広告のあり方やブログのスタンスについて一考できた気がする。
 
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戦々恐々の「グーグルは使わない」宣言

 
この記事には、なんとも現代のマーケット形式で稼いでいる人には恐ろしいことが書いているかと思う。SEO対策してある記事はリアルではない、とのことである。
 
「一昔前ならGoogleで検索して化粧品のランキングを見ていたが、いまは見ません。結果にウソが多いのも若い子は知っている。自分が使っている化粧品が良くなくても、(ネットの)評価がいいと『ウソだな』と思う。Instagramは個人がやっているからウソがない」——もちろんInstagramにだって広告は入っているわけだけれど、SEOの件も含めて、すごく核心をついた話に聞こえる。

http://jp.techcrunch.com/2016/03/03/istagram-genking/
 
引用にもあるように、この記事に書いてあることはわかる。僕も某通販サイトのレビューは信用しないし、ランキングも気にしない。基本は自分で使った感覚と見た印象を大事にする。それに、レビューやランキングに嘘があるのも職業柄知っている。
 
僕はそこまでインスタグラムを使っていない。でも、このインスタグラムの影響は多大で、主に中高生〜大学生の間でよく使われているのは、記事内にもある通り。知り合いのアフィリエイターの人も、広告をしっかり出しているようだが、果たしてうまく行っているのかどうかは定かではない。
 
僕としては、インスタグラムにはインスタグラムのやり方があるだけで、広告というのは恣意があって当然である。それを今までのやり方を当て込もうとするから歪になる。確かに、ネットのバナーは邪魔なだけで有用なものを見たイメージはない。
 
 
  • 「バナー広告がわずらわしい」「よい面だけを強調している広告」「同じ広告が何度も出てくる」が不満のトップ3、「スマートフォン上の広告は邪魔なものが多い」も8割
  • 「商品を売り込むだけの広告より内容が面白い・楽しい広告」が望まれる

    http://www.opt.ne.jp/news/pr/detail/id=2578

 

こちらの記事にもあるのだが、ネットに求められるのは速効性であったり、使い勝手のほうが求められている。今までのやり方のまま、インスタグラムで広告を貼っても若者に「ダサい」と判断するされるのは、このような時代の潮流が要因になっている。

 

 

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でも、結局は恣意的なものだよ広告って


ネットだろうとテレビだろうと、広告とは「自社や個人が作ったものを宣伝するもの」である。どんな形だろうと広告は「恣意的」なのである。始めのほうに取りあげた「グーグルは使わない」と宣伝している方も、ただインスタグラムにあった広告方法を見つけて儲けているだけである。「広告」という活動自体を否定しているわけではない。
 
 望ましいインターネット広告について、同感する(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」)人の比率をみると、「商品を売り込むだけの広告より内容が面白い・楽しい広告の方が良い」(74%)が4人に3人の割合で最も多い。  このほか、「広告は商品情報だけを詳しく示せばよい」(64%)、「少しでも安い商品を教えてくれる広告が良い」(64%)、「商品のことばかりでなく、流行や社会のことについて教えてくれる広告が良い」(63%)なども同感する人が多い。

http://www.opt.ne.jp/news/pr/detail/id=2578

 
 ネットの広告にきちんとした情報を求める声も多いし、それ以上に「広告がおもしろい」という声が大きい。これに関しては、インスタグラムがわからない人でもユーチューバーを想像すればわかりやすい気がする。
 
ユーチューバーの方々も、今まで広告の第一線で活動してきた人には度し難い存在かもしれま。しかし、今でも何十~百万回と再生されているユーチューバーもいる。下手な紙面広告よりも圧倒的に見られる。
ユーチューバーの人たちも、広告マンと同じく「広告費」なるものをもらって活動をしている。いわば会社の「商品」をいかに若い人や視聴者に売り込むのか必死に考えているのだ。この事実があっても若い人が「リアル」というのであれば、そこに対しては「NO」と強く突き返したい。それは、インスタグラムでも同じである。
 
 

広告という方法自体はこれからもなくならないでしょうし、広告媒体として重要な位置を占めてきたテレビやラジオ、、新聞、雑誌も引き続き形や役割を変えながら存在していくのではないかと考えています。

ただ、ここで重要な視点は、少なくとも、メディアの変化とテクノロジーの進化は、、確実に皆さんの行動を変えてているということです。スマートフォンソーシャルメディア、さらに、進化を続けているインターネット経由の広告テクノロジーにより、静的で一方向的なメディアであるテレビやラジオ、新聞、雑誌等に対する視聴者や読者の態度は確実に変わりつつあります。

https://medium.com/@takashihirai/-74b231941bca#.i2po9yxdl

 
 広告は無くならない。でも、形は変わっていく。今までの社会が会社単位の効率ばかり求めていたものから、どんどん個人化していくのは時代の流れだと思っている。先ほど挙げた「広告が変わってきている~」にもあるように、受け手の態度は大きく変化しているし、社会だって変わってきている。
 
今の若者にインスタグラムやユーチューバーの人たちが「リアル」に見えるのは、今生きている人たちにとって「ネット」という存在が大きく変わっているからだ。ネットで出会った人は、自分から簡単にコメントやメッセージを送れる。うまく行けば会うことだってできる。ネットで出会った人は、隣に住んでいるおじさんよりも「隣人」となっている。そんな時代なのである。
自分から「会いたい」や「しゃべりたい」人を選択することが可能となり、自分にとって魅力ある人が宣伝しているものなら買ってみてもいい。これが今の若者の「リアル」なんだと思う。
 
でも、この時点でネットに住む住人に「リアル」を感じてる人もはまっている訳である。「コメントしたい」や「会いたい」と思った時点で、ユーチューブにしろインスタグラムにしろ、そこにいるのはフリーランスな広告マンだ。ただ、今の若者にとっては「誰か作ったのかわからないもの」よりは「隣人が使ったことのあるもの」のほうが受け入れやすいのだろう。
しかし、雑誌だろうとなんだろうと「おもしろい」と思わせたのならば、人間はそこに対してお金をペイするものである。だから僕は、「おもしろい」や「有益」だと思えたものにはお金をペイすべきだと思うし、ただ「無料」なコンテンツを作るのではなくて「有料」なコンテンツを作ったほうがいいと思ったりはする。 


 今までの「マス」社会とこれからの「パーソナル」社会

 

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今までの広告はマス(全体的)なものを流していた。それは、日本社会が「大学入ってサラリーマンとなるホワイトカラーを増やす」ということで成り立つ社会だったから、そこに対して広告を打てば大半の人に意味のある広告と成っていた。いい意味で、広告と消費者が噛みあって循環している時代だったのが、日本の高度経済成長期からバブルが弾ける寸前の日本だったんだと思う。
 
しかし、今は個々人の生活体系がまったく違う人たちが多く、日本や会社がモデルとしている人たちに対して効果的に広告を打てなくなっている。いわゆる「サラリーマン」の全体数が減っていると共に力を失いつつある。だから、そのモデルに大量の広告を打つことに意味が出てこなくなっている。日本から徐々に「マス」が消えつつあるのだ。
もちろん、広告なので「マス」以外にターゲットを絞るのだが、どうしてもまだ「仮想ターゲット」として「マス」ばかり狙う傾向が抜けていない気がする。現代においてメディアに能動的にアクセスできるのだから、消えつつあるマスを狙うことに、僕としてはあまり意味を見出せない。
 
「マス」が自然と消えることで、パーソナルな時代に移行しつつある。それはスマホしかり、諸処のサービスを考えてみればわかっていただけるとかと思う。その結果、広告もユーチューブやインスタグラムの「個人」に対して働き掛けるほうが効率的なものになってきているのである。昔のように「今話題の~」とか「○○も使っている~」のような文言は、すでに効果を示さない。もちろん、恣意的過ぎる「つまらない」ものも受け入れられない。
 
このような時代に対して「個人主義が行き過ぎている」という意見がある。その通りだ。スマホばかり見て子どもをほったらかしにしている人を見ると、僕でさえ顔をしかめてしまう。
だがしかし、僕は今までのマス的な社会よりも、開かれたパーソナルな社会のほうを尊重したい。会社という組織があることで仕事の「効率化」や「安定した仕事」を運営できることにかんしては理解できる。しかし、それでも僕はパーソナルな時代に賭けてみたい。
 
個人的に「ライター」なんて仕事をしていることも「パーソナル」に傾倒する理由であるが、それ以上に「効率化」の結果として高齢化や少子化になっている現代の姿を見てしまうと、どうしてそのような社会を肯定できるのだろうか。
さらに言えば「とりあえず大学入って就職」という図式を生み出した挙句、何者にもなれない若者を生み出して「最近の若いやつは」とかいう人たちを肯定することだって、僕にはできないわけだ。
 
それに、僕個人としてもこのブログを使って動画・写真・文章を駆使して生の情報は届けやすい環境を作れる。少なくとも、ただ「これを流せば大丈夫」なんて胡坐を掻いている広告企業よりは社会貢献できるのではないだろうかと、ひそかなる野心ぐらいは抱いている。
たしかに広告主からすれば「ちゃんと宣伝して」となるだろうけれど、その前に有益なコンテンツであることや読んでいて「おもしろかった」を考えない限りは、ネット社会における広告は生き抜けないと考えているわけである。
 
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久々に田舎地域を訪れて思ったこと~地方を「姥捨山」にしてはいけない~

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僕は先日、約5年ぶりに祖父祖母の住んでいる愛媛県南予地域に向かった。弟はよく南予地域にドライブに行っているらしく「たまには帰らないと」と言われたので、塾講師から解放されたこともあって弟と祖父祖母の元へ向かうことにした。
 
愛媛県と聞けば「みかんでしょ」ぐらいしか浮かばない人も多いかと思う。少し知られているのは松山にある道後温泉しまなみ街道、あとは愛媛マラソンぐらいだと思う。
 
これらはすべて都心に集約していて、田舎にあるものではない。僕が向かった南予地域は、山と海しかない地域で、古民家が至るところに見える。最近はドライブの需要にあわせて道の駅などは充実している。ぼくも道の駅に立ち寄り、南予地域で取れる肉を使った焼き鳥に舌鼓を打った。でも、その道の駅を使う人・販売する人のどちらもが高齢化が進んでいた。
 
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祖父祖母の家は山の中腹にあって、坂道に石垣の土台を作ってその上に建てられてある。農家独特の横に広い家で、中は木々の匂いであふれている。ようきたなぁ、なんて言いながら祖母は手作りの稲荷や魚の煮付け、きゅうりとタコの酢漬け(今風に言えばマネリ的なものか)、たけのことコンニャクの煮付けをいただいた。今の時代にはない、少し甘めの味付けだ。でも、どこか懐かしくて、すべて美味しくいただいた。
 
祖父はすでに80になっていて、元々わるい足が悪化してほとんど寝ていることが多いらしかった。昔はお盆の時期に家族で里帰りしていたのだけれど、祖父はいつも農作業で日中家にいることは少なかった。そんな祖父が座椅子に腰を掛けているのは、どこか僕にとって不思議な感覚だった。
 
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帰る前、僕と弟は子供のころ遊びに行っていた滝を見に行こうとした。しかし、その滝は誰も手入れをする人がいなくなったらしく、樹々が倒れて道がふさがっていた。その木が原因で排水溝も詰まり、滝までの道が水びたしにもなっていた。とてもじゃないが行くことができず、僕たちは止む無く引き返すことになった。
 
僕が子供のころ、この南予地域はとても大きかった。今でも山は大きい。でも、今回訪れた南予地域はとても小さくて、今にも崩れてしまいそうだった。道行く人は杖や手押し車を使って移動する人が多くて、バスも電車も走っていない。これからどうやって生きていけばいいんだろうか。まるで滝に行く道までのように、このまま地方から徐々に日本という国が瓦解していくのではないだろうか。そんな国を捨てていのいちばんに立ち去るのは、国会のイスに深く腰を掛けている人なのだろうと僕は思ってしまった。
 
でも、祖父祖母の顔に僕が抱くような暗さは見えなかった。もちろん、国会の人たちのような暗渠もなかった。僕たちに会って喜んでくれていたのもあったんだろうけれど、山で生きてきた「強さ」みたいなのを感じた。強いものに巻かれたり、ひとつのやり方・生き方で踏ん切りをつけられない僕たちの方が、勝手に「介護が〜」とか「育児が〜」とかで迷っているのが、なんかバカらしくなってくる。そう考えると、ネットとかの批判って耳くそ目くそなんだなと思わざるを得なかった。だって、どこでどんな風に生きるのも、それを決めるのは当人なんだから。
 
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今は都心に何でも集中している。
 
仕事もものもサービスも。
 
今までは地縁に頼った生活だったのに、都心集中の現代になって地方は見捨てられつつある。そのせいもあって、取り残された高齢者の人が身動きできない状態になっていた。まるで姥捨山だな、と思うこともあった。
 
でも、どこに誰が何をするために住もうが、それは勝手なのである。だから、無理に「高齢者」と決めつけて介護施設に送ったり、都心や特定の地域に高齢者を集めたりするのは、現代人のエゴのように思う。僕たち現代の人にはないメンタル的な強さと生活の含蓄は、圧倒的に先人達のほうが持っている。インターネットになんて載っていない、本当の強さや知恵がある。
 
 
昨今、育児にかんする問題は熾烈を極めている。コメントとかで「都心に住まなければいい」とかカンタンに言う人もいるけれど、この問題って住む場所を変えたり、保育所をたくさん作ったからと言って解決することではない。この「ニャート」さんの記事にもあるように、僕はもっともっと「働く」ことに対して考えないといけないと思っている。
 
僕たちの仕事単価は時代が進んごとに低くなっている。どんどん仕事の効率が求められ、短い時間でたくさんの物量を重ねないとお金にならなくなった。でも僕は、この事実を確認するたびにまるでアリ地獄みたいだ、と感じてしまう。終わりのない仕事だけやって、僕たちから生活が無くなっていく感じしかしない。
 
僕たちが余裕持って年老いた両親や子供との時間を持てる生き方に変えていかないと、育児も介護も絶対に解決しない。今回の南予地域への旅行で、僕は強く思った。
 
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みんな育児に「危機感」を覚えているんだと思う

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恋愛観にかんする記事閲覧、ありがとうございます。

 
先日は「500日のサマー」を題材にしながら、今の恋愛観について多くの方に記事を見ていただきました。ありがとうございます。
 
 
最近、ネットやこのブログ、強いては普段の生活の中でも「育児」や「働き方」がテーマになったり、話題になることが多い気がする。直近で言えば「保育園落ちた死ね」などは記憶に新しい。
 
 
文章がどうのこうの言うつもりはないですが、非常に訴えるものがあるブログだなと思った。このブログだけでなく、「待機児童」にかんするブログしかり、育児をテーマにして執筆されている方も多くいる。
 
 
だがしかし、残念ながら僕たち新たな世代を育てる年齢に差し掛かる僕たちには、新たな世代よりも、これから老いる世代を支えることを優遇させられている感覚が拭えない。
 
止まらない保険料の圧迫と、安定しない働き方に、働きたくても整わない育児環境。この環境に僕たちは声を挙げるべきなのだけれど、前にもこの文章で話したように政治家は「数」が取れる場所から考える。
 
 
政治家さんに僕たち育児世代がどれだけ不満を漏らしても、彼らは日本国民のパーセンテージで言うところの「団塊」の人たちを重視するだろう。彼等に向けた政策や働きかけをするほうが、政治家さんに取ってもメリットがあるからだ。このままでは、まさに僕たちは「ロスジェネ」となってしまう。
 

高齢社会をネガティブに捉える日本、ポジティブに捉える洋画

 
僕たちが直面している超少子高齢化社会は、海外ではすでに経験されたことで、映画の題材にもなっている。ジブリ制作のアニメ映画「しわ」は、今までのジブリからは伺えないような、老人の悲しい現実と老後のあり方が描かれた。僕はこの映画を観て、老後の人生が絶望的に描かれているのが鼻に付いた。まるで年老いたらそれで終わり、のような、まるで価値なんてないと言った描き方が嫌いだった。
 
そして、この作品の根底にある考え方と、今の僕たちが思う絶望も同じような気がした。たしかに、僕もおじさんは苦手だし好きではない。だけど、そこまで卑下するものだろうか。
 
洋画で老後社会を描いたものに「最高の人生の見つけ方」や「人生の特等席」、老夫婦が銀行を襲う「人生に乾杯」、シニア夫婦のセックスレスを描いた「31年目の夫婦喧嘩」など、高齢者の人生について描かれた作品はたくさんある。この作品たちに一貫して感じるのは「希望」だった。
 
年寄りになるのは誰でも嫌である。しかし、肉体的に精神的にどれだけ若くても、世代的な老いは必ずやってくる。だから、この決められた定めに対して、むしろ僕たちが何をできるのか考えるほうが大事なんじゃないかと思う。
 

街の中に新たなコミュニティを作る

 
先日、テレビでこのような施設があることを放映していた。
 
 
この施設は、街の中に大きな間借りのコミュニティを形成し、小さな「村」を作って孤独な人を生み出さない試みである。この中で住む学生は家賃が安い代わりに子供の面倒を見るボランティアに奉仕しなければならない。老人もコミュニティの中にある店番をしたり、子供の世話をすることになる。これを見ていて、僕はこういうのも「アリだな」と純粋におもえた。
 
老人を介護の対象として捉えるのではなくて、生活基盤の1つとして組み込む。きちんと役割を与えるほうが、老人だってただ施設に入るより生き生きするだろう。画面越しだったが、コミュニティの中で店番をしたり、子供の世話をする老人たちは生き生きしていた。
 
僕たち新たな育児世代は、もちろん待機児童や労働環境に異を唱えるべきである。しかし、それだけでは政府は何もしないことも考慮すべきだと思う。それならば、今回紹介したような、新たなコミュニティ作りや、僕たちからも子供を「預ける」勇気を持たなければいけないと感じてしまう。
 
叫ぶなと言いたいわけではない。でも、叫び続けると、僕たちはいつの間にか目的を忘れてしまい、手段ばかり考えていることも多い。平和を歌って戦争しているはずが、いつのまにか核まで作ったアメリカのように。
 
あくまで僕たちは「生活」するために声をあげていて、何かを倒すために闘ったりヘイトをしているわけではないはずである。それならば、言葉は悪いかもしれないが「使えるものを有効活用する」という発想のほうが、僕としてはまだ健全に思うわけだ。
 
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恥ずかしながら「恋愛」について語ってみる~500日のサマーから見る現代の恋愛観~

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僕がこよなくあいする映画の中に「イルマーレ」という映画がある。

 
 
過去にこの映画について執筆したこともあるので割愛するけれど、この映画を見るたびに「結局恋愛が語られるのは映画の世界だけか」と思ってしまう。
 
前にとある女の友人と話していたのだが「恋愛もプロセスがあるからね」なんていうことを語っていたのが懐かしい。
 
恋人や結婚など、誰かと生活するとなれば好きだの何だのだけでは済まないけれど、やはり僕としては、それだけでは納得できない部分がある。納得できないと言うか、やはり「人間」足らしめる何かを、夢物語を書く側の人としては証明したくなってしまう。
 
僕自身、そんな恋愛経験が豊富なわけでもなければ、とんでもない恋愛をした経験もない。……いや、ちょっと驚く人と同じ時間を過ごした経験はあるか。でも、その人とどうこうなりたいとか、そんなことを思ったことはなかった。僕にとってその人は特別でもなかった。運命というものがあるなら、それを感じられなかった。そういうことである。
 
運命。
 
それがあるのかどうかはわからない。でも、相手に運命を感じさせる努力はできると思う。
 

「500日のサマー」という映画

 
僕が好きな恋愛映画に「500日のサマー」というものがある。
 
 
この映画は、とある男女が500日間恋人同士になるのだが、結局は別れて女性は別の男性と結婚することになる。
 
ヒーローもヒロインも、劇中では愛し合っていたし、ヒーローは幸せそうだった。しかし、ヒーローのほうはロマンチストで、どこか恋愛に夢見がちなところがあった。いわゆる「運命」と言ったものを信じている節があった。
 
劇中でも恋愛を楽しむヒーローに対し、ヒロインは次第に心が離れていく。ヒーローの恋愛観は、相手との時間を楽しむというよりは、恋愛している「自分」を楽しんでいる節が、端々に見えてくる。500日の間に、ヒロインから見えるヒーローのあり方の変化が、「500日のサマー」ではきれいに描かれている。
 

「500日のサマー」から考える現代の恋愛観

 
昨今、晩婚化や少子化、草食男子、お一人様など僕たちを囲む人付き合いの環境は著しく変化している。その中で「婚活」や「街コン」など、出会いの場を通して結婚相手を探す活動も増えている。ただ、「500日のサマー」を見た後だと、その場で結婚相手が見つかるようにはあまり思えなかった。
 
僕は運命はないと思う。あるのは偶然で、その積み重ねを「運命」なんて呼ぶんだと思う。言ってしまえば、理想の女性や男性なりを「運命たろう」とする努力を自分でするのか。そっちのほうが大事な気がする。
 
結婚による生活のリスクや、相手を「しあわせにする」ことよりも、自分が幸せになることを考える人は増えているかもしれない。でも、相手が幸せになることで自分も幸せになるんじゃなかろうか。少なくとも、社会を形成する僕たちには、潜在的にそのような遺伝子が組み込まれていると僕は信じたい。
 

 
いま、ツイッターでは「誰かと一瞬に生活するのめんどい」や「結婚したい人がいない」、「結婚コスパ悪い」など、誰かと生活を共有することにネガティヴな意見を多く見かける。確かに、誰とも結婚しなかったり1人で生きるのも自由だ。それに、何らかの事情で結婚や異性へ感情をぶつけることが難しい人もいる。こうなってくると、結婚という制度さえ古めかしくて、改善する必要さえあるのかと思う。
 
でも、誰かといたいのに「いい人がいない」や「仕事のせいで出会いがない」というのは、いささか努力不足な気がする。それに、誰かと何かを分かち合う幸せを否定すれば、なにか生き物としての根幹的な部分を否定するような気がしてならない。

誰かと一緒にいたいならば、自分が変わることも大事だけど、他者に自分から働きかけて「一緒にいたい人」や「幸せ」を感じさせるように変化させる発想や努力だって、僕は必要なんじゃないかなと思ったりするわけだ。
 
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