ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

久々に田舎地域を訪れて思ったこと~地方を「姥捨山」にしてはいけない~

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僕は先日、約5年ぶりに祖父祖母の住んでいる愛媛県南予地域に向かった。弟はよく南予地域にドライブに行っているらしく「たまには帰らないと」と言われたので、塾講師から解放されたこともあって弟と祖父祖母の元へ向かうことにした。
 
愛媛県と聞けば「みかんでしょ」ぐらいしか浮かばない人も多いかと思う。少し知られているのは松山にある道後温泉しまなみ街道、あとは愛媛マラソンぐらいだと思う。
 
これらはすべて都心に集約していて、田舎にあるものではない。僕が向かった南予地域は、山と海しかない地域で、古民家が至るところに見える。最近はドライブの需要にあわせて道の駅などは充実している。ぼくも道の駅に立ち寄り、南予地域で取れる肉を使った焼き鳥に舌鼓を打った。でも、その道の駅を使う人・販売する人のどちらもが高齢化が進んでいた。
 
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祖父祖母の家は山の中腹にあって、坂道に石垣の土台を作ってその上に建てられてある。農家独特の横に広い家で、中は木々の匂いであふれている。ようきたなぁ、なんて言いながら祖母は手作りの稲荷や魚の煮付け、きゅうりとタコの酢漬け(今風に言えばマネリ的なものか)、たけのことコンニャクの煮付けをいただいた。今の時代にはない、少し甘めの味付けだ。でも、どこか懐かしくて、すべて美味しくいただいた。
 
祖父はすでに80になっていて、元々わるい足が悪化してほとんど寝ていることが多いらしかった。昔はお盆の時期に家族で里帰りしていたのだけれど、祖父はいつも農作業で日中家にいることは少なかった。そんな祖父が座椅子に腰を掛けているのは、どこか僕にとって不思議な感覚だった。
 
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帰る前、僕と弟は子供のころ遊びに行っていた滝を見に行こうとした。しかし、その滝は誰も手入れをする人がいなくなったらしく、樹々が倒れて道がふさがっていた。その木が原因で排水溝も詰まり、滝までの道が水びたしにもなっていた。とてもじゃないが行くことができず、僕たちは止む無く引き返すことになった。
 
僕が子供のころ、この南予地域はとても大きかった。今でも山は大きい。でも、今回訪れた南予地域はとても小さくて、今にも崩れてしまいそうだった。道行く人は杖や手押し車を使って移動する人が多くて、バスも電車も走っていない。これからどうやって生きていけばいいんだろうか。まるで滝に行く道までのように、このまま地方から徐々に日本という国が瓦解していくのではないだろうか。そんな国を捨てていのいちばんに立ち去るのは、国会のイスに深く腰を掛けている人なのだろうと僕は思ってしまった。
 
でも、祖父祖母の顔に僕が抱くような暗さは見えなかった。もちろん、国会の人たちのような暗渠もなかった。僕たちに会って喜んでくれていたのもあったんだろうけれど、山で生きてきた「強さ」みたいなのを感じた。強いものに巻かれたり、ひとつのやり方・生き方で踏ん切りをつけられない僕たちの方が、勝手に「介護が〜」とか「育児が〜」とかで迷っているのが、なんかバカらしくなってくる。そう考えると、ネットとかの批判って耳くそ目くそなんだなと思わざるを得なかった。だって、どこでどんな風に生きるのも、それを決めるのは当人なんだから。
 
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今は都心に何でも集中している。
 
仕事もものもサービスも。
 
今までは地縁に頼った生活だったのに、都心集中の現代になって地方は見捨てられつつある。そのせいもあって、取り残された高齢者の人が身動きできない状態になっていた。まるで姥捨山だな、と思うこともあった。
 
でも、どこに誰が何をするために住もうが、それは勝手なのである。だから、無理に「高齢者」と決めつけて介護施設に送ったり、都心や特定の地域に高齢者を集めたりするのは、現代人のエゴのように思う。僕たち現代の人にはないメンタル的な強さと生活の含蓄は、圧倒的に先人達のほうが持っている。インターネットになんて載っていない、本当の強さや知恵がある。
 
 
昨今、育児にかんする問題は熾烈を極めている。コメントとかで「都心に住まなければいい」とかカンタンに言う人もいるけれど、この問題って住む場所を変えたり、保育所をたくさん作ったからと言って解決することではない。この「ニャート」さんの記事にもあるように、僕はもっともっと「働く」ことに対して考えないといけないと思っている。
 
僕たちの仕事単価は時代が進んごとに低くなっている。どんどん仕事の効率が求められ、短い時間でたくさんの物量を重ねないとお金にならなくなった。でも僕は、この事実を確認するたびにまるでアリ地獄みたいだ、と感じてしまう。終わりのない仕事だけやって、僕たちから生活が無くなっていく感じしかしない。
 
僕たちが余裕持って年老いた両親や子供との時間を持てる生き方に変えていかないと、育児も介護も絶対に解決しない。今回の南予地域への旅行で、僕は強く思った。
 
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みんな育児に「危機感」を覚えているんだと思う

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恋愛観にかんする記事閲覧、ありがとうございます。

 
先日は「500日のサマー」を題材にしながら、今の恋愛観について多くの方に記事を見ていただきました。ありがとうございます。
 
 
最近、ネットやこのブログ、強いては普段の生活の中でも「育児」や「働き方」がテーマになったり、話題になることが多い気がする。直近で言えば「保育園落ちた死ね」などは記憶に新しい。
 
 
文章がどうのこうの言うつもりはないですが、非常に訴えるものがあるブログだなと思った。このブログだけでなく、「待機児童」にかんするブログしかり、育児をテーマにして執筆されている方も多くいる。
 
 
だがしかし、残念ながら僕たち新たな世代を育てる年齢に差し掛かる僕たちには、新たな世代よりも、これから老いる世代を支えることを優遇させられている感覚が拭えない。
 
止まらない保険料の圧迫と、安定しない働き方に、働きたくても整わない育児環境。この環境に僕たちは声を挙げるべきなのだけれど、前にもこの文章で話したように政治家は「数」が取れる場所から考える。
 
 
政治家さんに僕たち育児世代がどれだけ不満を漏らしても、彼らは日本国民のパーセンテージで言うところの「団塊」の人たちを重視するだろう。彼等に向けた政策や働きかけをするほうが、政治家さんに取ってもメリットがあるからだ。このままでは、まさに僕たちは「ロスジェネ」となってしまう。
 

高齢社会をネガティブに捉える日本、ポジティブに捉える洋画

 
僕たちが直面している超少子高齢化社会は、海外ではすでに経験されたことで、映画の題材にもなっている。ジブリ制作のアニメ映画「しわ」は、今までのジブリからは伺えないような、老人の悲しい現実と老後のあり方が描かれた。僕はこの映画を観て、老後の人生が絶望的に描かれているのが鼻に付いた。まるで年老いたらそれで終わり、のような、まるで価値なんてないと言った描き方が嫌いだった。
 
そして、この作品の根底にある考え方と、今の僕たちが思う絶望も同じような気がした。たしかに、僕もおじさんは苦手だし好きではない。だけど、そこまで卑下するものだろうか。
 
洋画で老後社会を描いたものに「最高の人生の見つけ方」や「人生の特等席」、老夫婦が銀行を襲う「人生に乾杯」、シニア夫婦のセックスレスを描いた「31年目の夫婦喧嘩」など、高齢者の人生について描かれた作品はたくさんある。この作品たちに一貫して感じるのは「希望」だった。
 
年寄りになるのは誰でも嫌である。しかし、肉体的に精神的にどれだけ若くても、世代的な老いは必ずやってくる。だから、この決められた定めに対して、むしろ僕たちが何をできるのか考えるほうが大事なんじゃないかと思う。
 

街の中に新たなコミュニティを作る

 
先日、テレビでこのような施設があることを放映していた。
 
 
この施設は、街の中に大きな間借りのコミュニティを形成し、小さな「村」を作って孤独な人を生み出さない試みである。この中で住む学生は家賃が安い代わりに子供の面倒を見るボランティアに奉仕しなければならない。老人もコミュニティの中にある店番をしたり、子供の世話をすることになる。これを見ていて、僕はこういうのも「アリだな」と純粋におもえた。
 
老人を介護の対象として捉えるのではなくて、生活基盤の1つとして組み込む。きちんと役割を与えるほうが、老人だってただ施設に入るより生き生きするだろう。画面越しだったが、コミュニティの中で店番をしたり、子供の世話をする老人たちは生き生きしていた。
 
僕たち新たな育児世代は、もちろん待機児童や労働環境に異を唱えるべきである。しかし、それだけでは政府は何もしないことも考慮すべきだと思う。それならば、今回紹介したような、新たなコミュニティ作りや、僕たちからも子供を「預ける」勇気を持たなければいけないと感じてしまう。
 
叫ぶなと言いたいわけではない。でも、叫び続けると、僕たちはいつの間にか目的を忘れてしまい、手段ばかり考えていることも多い。平和を歌って戦争しているはずが、いつのまにか核まで作ったアメリカのように。
 
あくまで僕たちは「生活」するために声をあげていて、何かを倒すために闘ったりヘイトをしているわけではないはずである。それならば、言葉は悪いかもしれないが「使えるものを有効活用する」という発想のほうが、僕としてはまだ健全に思うわけだ。
 
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恥ずかしながら「恋愛」について語ってみる~500日のサマーから見る現代の恋愛観~

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僕がこよなくあいする映画の中に「イルマーレ」という映画がある。

 
 
過去にこの映画について執筆したこともあるので割愛するけれど、この映画を見るたびに「結局恋愛が語られるのは映画の世界だけか」と思ってしまう。
 
前にとある女の友人と話していたのだが「恋愛もプロセスがあるからね」なんていうことを語っていたのが懐かしい。
 
恋人や結婚など、誰かと生活するとなれば好きだの何だのだけでは済まないけれど、やはり僕としては、それだけでは納得できない部分がある。納得できないと言うか、やはり「人間」足らしめる何かを、夢物語を書く側の人としては証明したくなってしまう。
 
僕自身、そんな恋愛経験が豊富なわけでもなければ、とんでもない恋愛をした経験もない。……いや、ちょっと驚く人と同じ時間を過ごした経験はあるか。でも、その人とどうこうなりたいとか、そんなことを思ったことはなかった。僕にとってその人は特別でもなかった。運命というものがあるなら、それを感じられなかった。そういうことである。
 
運命。
 
それがあるのかどうかはわからない。でも、相手に運命を感じさせる努力はできると思う。
 

「500日のサマー」という映画

 
僕が好きな恋愛映画に「500日のサマー」というものがある。
 
 
この映画は、とある男女が500日間恋人同士になるのだが、結局は別れて女性は別の男性と結婚することになる。
 
ヒーローもヒロインも、劇中では愛し合っていたし、ヒーローは幸せそうだった。しかし、ヒーローのほうはロマンチストで、どこか恋愛に夢見がちなところがあった。いわゆる「運命」と言ったものを信じている節があった。
 
劇中でも恋愛を楽しむヒーローに対し、ヒロインは次第に心が離れていく。ヒーローの恋愛観は、相手との時間を楽しむというよりは、恋愛している「自分」を楽しんでいる節が、端々に見えてくる。500日の間に、ヒロインから見えるヒーローのあり方の変化が、「500日のサマー」ではきれいに描かれている。
 

「500日のサマー」から考える現代の恋愛観

 
昨今、晩婚化や少子化、草食男子、お一人様など僕たちを囲む人付き合いの環境は著しく変化している。その中で「婚活」や「街コン」など、出会いの場を通して結婚相手を探す活動も増えている。ただ、「500日のサマー」を見た後だと、その場で結婚相手が見つかるようにはあまり思えなかった。
 
僕は運命はないと思う。あるのは偶然で、その積み重ねを「運命」なんて呼ぶんだと思う。言ってしまえば、理想の女性や男性なりを「運命たろう」とする努力を自分でするのか。そっちのほうが大事な気がする。
 
結婚による生活のリスクや、相手を「しあわせにする」ことよりも、自分が幸せになることを考える人は増えているかもしれない。でも、相手が幸せになることで自分も幸せになるんじゃなかろうか。少なくとも、社会を形成する僕たちには、潜在的にそのような遺伝子が組み込まれていると僕は信じたい。
 

 
いま、ツイッターでは「誰かと一瞬に生活するのめんどい」や「結婚したい人がいない」、「結婚コスパ悪い」など、誰かと生活を共有することにネガティヴな意見を多く見かける。確かに、誰とも結婚しなかったり1人で生きるのも自由だ。それに、何らかの事情で結婚や異性へ感情をぶつけることが難しい人もいる。こうなってくると、結婚という制度さえ古めかしくて、改善する必要さえあるのかと思う。
 
でも、誰かといたいのに「いい人がいない」や「仕事のせいで出会いがない」というのは、いささか努力不足な気がする。それに、誰かと何かを分かち合う幸せを否定すれば、なにか生き物としての根幹的な部分を否定するような気がしてならない。

誰かと一緒にいたいならば、自分が変わることも大事だけど、他者に自分から働きかけて「一緒にいたい人」や「幸せ」を感じさせるように変化させる発想や努力だって、僕は必要なんじゃないかなと思ったりするわけだ。
 
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「今」を生きる ~ペット専門店のオーナー編①~

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僕は知人の紹介で、とある人と会う約束を取り付けてもらった。元々は、僕がパーソナリティをしているラジオに出てもらおうと考えていたのだが、その話ではなくて純粋に「会いたい」と思ったので会うことにした。

 

落ち合う場所は、街中にあるチェーンカフェ店。平日の木曜日、午後2時に会う約束になっていた。こんな平日のお昼間に時間が取れる人とはどんな人だろうかと思っていた。僕は15分前に待ち合わせ場所に向かうと、今回お会いする人との橋渡しをしてくれた知人がテラスで待っていた。僕も飲み物を注文してから、知人の元へ向かった。

 

僕が会いたいと思った人は、その知人が勤めるペット専門店のオーナーとのことだった。僕のイメージするオーナーには2種類ある。

前者はバリバリで仕事のことばかり考える人。後者は何か目的があって仕事をし、自分は自由に動くタイプの人。木曜の平日に、こんな所属不明のライターに会おうと言っていただけるのだから、奇特な自由人なのだろうと僕は思っていた。

 

待ち合わせの時間になると、ダウンベストにジーパンで、明るめの金髪に染めた男性が僕たちの元に近づいてきた。その男性をみて知人は「おつかれさまです」と声を掛ける。ということは、この男性がペット専門店のオーナーだろう。僕も立ち上がり簡単な挨拶をした後、席に座した。

 

オーナーさんは他県から移住してきた人のようだ。元々はペット飼育に関する学校で講師をしていたようであるが、講師業を止めて自分のお店を持つに至ったようである。


まだ30代にもかかわらず、自らお店を持って利益を出すことに驚いたのだが、話していく内にオーナーさんも僕の職業にも驚きを隠せなかったようである。どうも、今住んでいる県に来てから「ライター」なんて仕事をしている人や、僕のような価値観を持った人に出会うことはなかったようだ。

 

僕は質問に答えながら、ライターとして何社か契約して記事を書く仕事をしているのか、地方から発信するラジオのパーソナリティをやってみたり、自ら文章教室を開いたりしていることを話した。その話を聞いて、オーナーさんは「現代的だよね」という風に言ってくれた。

 

オーナーさんもさまざまな仕事をやった上で、現在のペット専門店オーナーに行き着いたようである。その間もさまざまな仕事をしていたようだが、そのとき「働いているけれど、生きているとは違う」と思い至ったようである。

 

昔だと「人生とは仕事である」という言葉は、よく使い古されたクリシェだと思う。しかし、現代だとそのようにはいかない。そもそも、仕事を提供する会社自体が弱っているのだから。その会社が人の一生を担保できる時代でもないし、子供を産んでも育児と仕事の両立を阻害する場所になることだってある。そんな会社に、どうして骨を埋めることができるのだろうか。オーナーさんの語る姿は、横柄でも何でもなかった。まさに、現代の人が思うことをただ言葉にしていた。

 

オーナーさん自身はフリーランスとかではないけれど、ペット専門店だけでなくペットのしつけや世話をする仕事いくつか展開している。どこか一か所だけに絞るのではなくて、色んな仕事をして「自分のしたいこと」のために仕事をしている。そんな風にオーナーさんは語ってくれた。オーナーさんが僕に対して「現代的だね」と言っていただいたのと同じように、僕もオーナーさんの生き方は「現代的」だと思った。

(後半に続く)

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本の強みは問いかける力 ~余白の精神に基づく書き方~

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先日、私がよく拝読している「かんどー」様のブログにてこのような記事があった。

 
 
週刊誌にご自身のブログが紹介されたとのことだけれど、素直に羨ましいと思った。よく世間では「本はオワコン」や「出版業界は斜陽」という話を聞くけれど、本や雑誌が持つ力は大きい。なんで大きいかと言うと、編集された内容だけではなくて付加価値が付いているからだと思う。
 

本が持つ価値とは「移動」と「伝達」

 
「本の方が温かみがある」とかではなくて、本がひとつ市場に出るだけで多くのお金が動く。編集するために人も動く。「本はお金が掛かる」というけれど、それは当然である。多くの人の手が関わり、1冊の本になるのだから。このやり方は古臭くて無意味なように感じるかもしれないけれど、本に温かみを感じるのは多くの人の手が加わっているからだと僕は思う。
 
もちろん、本なのだからそこに記載してある情報には価値が求められる。ただ、その情報というものの質には違いがあるような気がする。
 

「インターネット」と「本」における情報の質の違い

 
インターネットの情報は、別の言い方をすれば「解答」だと考えている。インターネットで検索をする人は、自分がほしい情報を求めて検索をかける。自分が求めるキーワードに沿ってページが表れ、ひとつの「解答」を提示する。
 
これに対して、本は「問い」を投げ掛けてくる。タイトルや内容に読書が求める情報があったとしても、それは完全なる解答ではない。あくまで読み手を意識した隙、みたいなものを僕は感じる。
 
日本には「余白」を意識した美意識がある。京都の銀閣にある「枯山水」思い起こしてほしい。枯山水は、水を使わずに波の流れる海を表現している。この波の表現も、海や水のすべてを表現していない。ただ波のようなイメージを石庭にて表現しているに過ぎない。それなのに、人はその庭から海を感じる。
 
この相手に想像を促す発想は、日本古来にある敬語にも通ずるものがあると思う。敬語は自分ではなくて、相手を立てることで自分の敬意を表現する。発議しているのは自分だが、相手を直接的に評価はしていない。これも「余白」を用いた自己表現になるのだと思う。もっと言えば、本と同じく相手に「問い」を投げることで自分のフィールドへと誘い出している。
 

僕はエッセイストのほうをやりたい

 
僕はこのブログで、あまりアフィリ色の強い内容を書こうとは思っていない。でも、好きかって書いたところで誰も見ないだろうし、情報としても落第者だろう。しかし、このような記事であっても誰かにとっての「解答」であり、何らかの「問い」を投げ掛けていきたいと思っている。
 
 
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読者登録者様31~40名ご紹介ページ ~ご登録ありがとうございます~

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 こんにちは、リュウ・ライタでございます。

 

いつもご覧になってくださっている方々、ありがとうございます。

 

本日は「ここだけのはなし」恒例となっております、読者登録者様の紹介コーナーです。

 

今回は、読者登録者様の31~40名様をご紹介させていただきます!

 

editman.hatenablog.com

 

本日のトップバッターは「エディットマンの編集旅路」さまです。編集にかんする記事が充実しており、ご自身でCGや素材なども作っております。素材やパソコン関係の記事だけでなくご自身の日常的な記事もあります。

 

udonmotch.hateblo.jp

 

2人目にご紹介するのは「単角子宮で二児の母(予定)」さまです。いま現在(この記事執筆中)に2人目のお子様を妊娠しており、執筆者様が妊娠して思うことを記事にしております。これからお子さんを身ごもる人には貴重な意見が揃っていますよ。

 

aqua-exp.hatenablog.jp

 

3人目にご紹介するのは「Aqua-Experience」さまです。私も書いているはてなブログでの活動記録や、どうすればアクセス数などが上がるのかしっかり記事にしているイメージがあります。私も勉強しなければと思うばかりの記事がたくさんです。

 

happymean.hatenadiary.com

 

4人目にご紹介するのは「happy mean ちょうど良い日常」さまです。ご自身の日常が切り取られた記事が多く見受けられます。それ以外にも、執筆者様が使って便利だったものや本の紹介もしてあるブログとなっております。

 

xkarasu.hatenablog.com

 

5人目にご紹介するのは「kobaの気になるトレンド情報♪」さまです。芸能関連の気になる記事を多く執筆しているように見受けられます。キャッチャーなタイトルが多く自然とクリックして読みたくなってしまいますね♪

 

fuura0925.hatenablog.com

 

6人目にご紹介するのは「fuuraの小部屋」さまです。はてなブログでは珍しく見える小説を執筆されております。私個人も小説や物語は好きなので、思わず読んでしまうブログのひとつとなっております。

 

aechanman.hatenablog.com

 

7人目にご紹介するのは「あえろぐ。偽の食欲labo」さまです。タイトルにもあるように「食」について書かれた記事が多くありお腹が減ってきそうです。「食」だけでなく啓発的な内容も読んででなるほど、と思う記事がたくさんあります。

 

yamaton15.hatenablog.com

 

8人目にご紹介するのは「大学生が中退してトップ営業マン」さまです。タイトルにもあるように大学を辞めた後に営業マンとして活躍されている方。その中で培われたノウハウは必見ものです!

 

komiyama0506.hatenablog.com

 

 

9人目にご紹介するのは「コミヤマの日記」さまです。備忘録とあるように、ご自身の日常や思ったことを多く綴っているのが特徴。その中に音楽や本のレビューがはさまれており、執筆者様の思想の根幹を垣間見れるようになっています。

 

kengo700.hatenablog.com

 

本日のラストを飾るのは「kengo700のブログ」さまです。機械系の学問を学ぶ学生らしく、パソコンやソフトを中心に記事が執筆されております。それ以外にもアニメやゲームなど故人の趣味にかんする記事も見受けられます。

 

今回は、これにて以上となります。読者登録していただきありがとうございます!

 

今後とも皆様、よろしくお願いします。

 

 

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生きた化石

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今日は公共機関にて必要な手続きあったので向かった。平日の昼間ということで人ごみに悩むこともなく、手に持った受付番号はすぐ呼ばれた。

 

以前のブログでも書いたけれど、僕は二度手間にならないように必要だと思われる書類や資料はすべて用意してから公共機関の施設へ向かう。本日も必要だと思われるものは全部用意していたので、何の問題もなく手続きを終えることができた。

 

担当係員の人も手際がよくて、僕は何の問題もなくすべての手続きを終えようとしたときだった。施設内全域に響き渡るようなおばさんの声が聞こえてくる。その内容は支離滅裂で、施設内にはそぐわないもので「謝れ」とか「信用できない」というものが大半だった。それに対して係員も「とりあえず手続きをしてください」や「困ります」という言葉をオウムのように繰り返しているだけだった。僕はその声を聞きながら、その場を後にした。

 

**

 

今日は公共機関だけでなく、その後人に会う約束もあったので、待ち合わせであるチェーンカフェ店へ先に向かった。その場でこのブログや諸処の仕事を片付けておこうという算段である。しかし、この時期は大学生の長期休暇や卒業式シーズンで学生が多くタムロしていた。チェーンとはいえカフェとは思えない雰囲気に、僕は辟易としてしまった。だが、僕は彼らだけを否定したり責めることができなかった。彼らを見ていると、透かしたように先ほど公共機関で見たおばさんの影が見えたからだ。

 

カフェだけでなく、最近ではデパートやファミレスでも好き勝手に過ごす人は多い。多くの人はスマホを見ながら談笑し、子どもがいる人は置きっぱなしにしている。どんな場所でも自分のスペースを確保しやすくなった。だが、そこには公共というルールがある。にもかかわらず、自分の環境をそのまま持ってきて、まるで我がもの顔で振る舞う人が多い。僕は、チェーンカフェ店という空間は、まだ日本人には早いのではないかと思ってしまうばかりである。

 

とある人の話では、欧米にてカフェや飲食店に入れば、知らない人同士が急に歌ったり話したりすることは割と普通なことらしい。あくまでその人の主観であるが、洋画などを見ている限り何となくその雰囲気は分かる気がする。

馴れ馴れしく話すわけではなく、その公共の場を通じて隣人のような人が生まれているのだろうと思った。日本で言えばご近所や集会所、町内会の集まりみたいなものである。

 

町内会や隣人同士ならば、それなりの公共が発生する。それはカフェでも同じである。しかし、日本における飲食店は「お客様」で、お金をペイする消費者は「神様」的な感覚がまだ残っている。おそらくだけど、公共機関で怒号を上げていたおばさんは「神様」だったのだろう。自分の義務を忘れた悲しい神様。そんな神様を見て育った子供たちだけを批判するのは、僕にはできなかった。

 

***

 

僕は自分の趣味である模型を買いに、家電店に向かったある日のことだ。レジへ向かうと、3~4歳ぐらいの子どもを連れた女性が会計を先に行っていた。何にでも興味を示す子どもは、女性が目を離すとエスカレーターのほうへと向かおうとしていた。女性は何度も子どもの手を引いて、なかなか会計が終わらなかった。
 
僕は子どもの手を引いて、女性が会計をスムーズに終わるようにサポートした。会計が終わると、女性は軽く会釈だけしてそそくさとその場を去ってしまった。感謝の意などがほしかったわけではない。しかし、お礼や見知らぬ僕に手を引かれた子供に対して、あの女性はどんな説明をするのだろうか。それが気になっただけである。

今思えば、家電店で会った女性は生きた化石だったのかもしれない。これまでの歴史や習慣を堆積した結果生まれた、生きた化石なのである。地縁や顔見知りの人の中だけで生き、そのような人の生き方、そして将来になって公共施設で叫んでしまうような女性を見て育ったのではないなと夢想した。

別にアメリカのようになれとは言わないが、今までの地縁の中で育まれた村的社会ではなくて、本当の意味でも公共性が必要になってくるのではないかと思う、今日この頃である。
 
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