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ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

『鉄血のオルフェンズ』を「好きだけど、おもしろくない」に共感できる人いますか? ~徹底して「鉄華団」を描いた結果を考察してみる~

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ツイッターでは一時、話題のキーワードをすべて登場人物や作品名で埋め尽くされた『鉄血のオルフェンズ』シリーズ。ついに42日で最終回を迎え、第1シーズンから引き続いて行われた第2シーズンではさまざまな人が死に、毎週放送終了後に話題となった。

 

そんな『鉄血のオルフェンズ』をすべて見終えた私だが、小説を読み終えた後のような重々しくて、消化不良のような「モヤモヤ感」を覚えた。そこで、自分が納得するためにも今回は筆を取ってみようと思う。

 

やはりバッドエンドになった『鉄血のオルフェンズ

 

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』は、第1期が201510月からスタートし、201742日に最終回を放送した。従来のガンダムではお馴染みのビーム兵器は出てくることが無く、モビルスーツ同士が大きな鈍器で殴り合い、実弾の銃兵器を撃ち合うという少し変わった趣向となっている。

 

また、本作の軸となってくるのは、タイトルにもあるように「孤児」というキーワード。オルフェンズとは「孤児たち」という意味であり、主人公である三日月・オーガスオルガ・イツカたちはすべて「孤児」である。また、彼らが作り上げる「鉄華団」も孤児や、ヒューマンデブリと呼ばれる人身売買されて行き場のない子どもたちが集まり、傭兵集団として名乗りを上げるのが第1シリーズの主な流れとなる。

 

孤児たちが主人公であり、明確に敵を倒すという目的が出発点ではない。火星の独立を目指すクーデリアという少女を地球へ運ぶまでの物語であり、その道中で邪魔となる軍隊「ギャラルホルン」や、宇宙航路を牛耳る各企業との闘いが主になる。

 

これらの対外勢力と闘う際には、ガンダムシリーズではお馴染みの「モビルスーツ」で闘うことになるが、割と白兵戦も多かった気がする。第1シーズンでは開幕早々、三日月がギャラルホルンの将校とモビルスーツで決闘することになる。しかし、モビルスーツで決着が付き、将校と三日月が対面する。従来ならばモビルスーツごとパイロットを粉砕するか、その後は会話だけで終わるのが通例であった。しかし、三日月は対面した将校をピストルで撃ち殺す。これは今までのガンダムシリーズでは考えられない決着であった。

 

そんな危険思想を持った子供たちが主役なのである。『鉄血のオルフェンズ』内の子供たちは、劇中で大人たちからさんざんな扱いを受けているため、よほどのことが無い限り彼らの人生や価値観が変わることなんて無いのである。それは大人でも同じで、社会にもまれた大人が、いきなり「明日から別の考え方で動いてね」なんて言われても、簡単に変わらないのと同じ。

 

孤児として育てられ、生まれてから銃しか握らなかった彼らが、世界平和のためや主義・主張のために闘うことなんて考えられないのだ。劇中でも文字の読み書きも知らず、しかもお金の使い方も知らない。そんな子供たちが主役だったのが『鉄血のオルフェンズ』である。

 

危険な思想を持ち、将来への希望も持たず「前進すること」だけが目標だったオルフェンズたち。彼らのスタート地点が歪であったことも考えると、やはりラストが大団円のハッピーエンドになるわけがない。

 

概ねは予想通りのラスト

 

 

 

1シーズンは鉄華団がのし上がり、腐敗したギャラルホルンに一泡吹かせるといった物語が進んでいった。その中には、ギャラルホルンを改変しようとしたマクギリスの協力もあり、第1シーズンは勧善懲悪のようなストーリー展開となった。

 

しかし、第2シーズンでは急成長した鉄華団にほころびが見え始める。のし上がった先の目標が見えず、数々の組織にいいように使われていくような立ち位置になってしまう。最終的にはマクギリス側に鉄華団は付き、ギャラルホルンの改革に加担することになる。

 

しかし、マクギリスが改革のために裏で手を引いていたことをすべて知っている、ガエリオという人間が登場。彼は第1シーズンで死んだように見えたが、第2シーズンでは「仮面の男」として暗躍するのだ。すべての顛末を観た上で、ガエリオはマクギリスに復讐するかどうか考えていたようだ。

 

しかし、マクギリスのやり方に異を唱えるガエリオは、ギャラルホルンの中でも政治的手腕に富んだラスタル陣営に加担。そして、マクギリス陣営とラスタル陣営での部隊衝突へと物語が流れていく。

 

ここで鉄華団にとって大きな誤算だったのは、マクギリスに多くの過ちがあったこと。マクギリスは、ギャラルホルンの権威とされる「ガンダムバエル」を手に入れればすべてうまく行くと踏んでいた。しかし、その計算はすぐに崩れ、あっというまにラスタル陣営が有利になる。大事な仲間を多く失いながら、鉄華団は火星への撤退を余儀なくされ、そのままギャラルホルンとの戦闘にもつれ込む。

 

1つの傭兵団体が、世界の秩序を守る軍隊相手には力及ばず、どんどん劣勢になっていく。しかし、三日月のガンダムバルバトスルプスレクスと、メンバーである昭宏が駆るガンダムグシオンリベイクフルシティ2機だけで、その戦場を掌握しようとする。その努力もむなしく、禁止兵器とされるダンスレイブによって致命傷を受けてしまう。

 

ボロボロになったところに、ラスタルの腹心であるジュリエットがモビルスーツに乗ってやってくる。すでに死んでいると思われる三日月と昭宏だが、悪魔の名を冠するモビルスーツに取り込まれ、ボロボロの状態ながらギャラルホルン陣営をどんどん制圧する。

 

しかし、それでも戦況をひっくり返すほどの力は無く、最後には昭宏も力尽き、三日月もジュリエットと闘おうとするときには、すでに意識が無かった。最後にジュリエットはバルバトスの首をもぎ取り、勝ち鬨を上げて物語は幕を閉じる。

 

それでもなぜか「良かった」と思える不思議感覚

 

 

 

 

最終回ではさらに、鉄華団がいなくなった後の世界を少しだけ映し出した。鉄華団の名前は語り継がれることはなく、すべては「マクギリスの謀反」として時間が流れていた。その後はラスタルが地球圏においてギャラルホルンの政治を動かすこととなり、火星からもギャラルホルンの撤退を決めて自治権を認める。自治権を認められた火星では、第1シーズンから火星独立運動を行っていたクーデリアが治めることになる。

 

すべての鉄華団員が死んだわけではなく、数名は生き残って火星や地球で生活を送っていた。その生き残りの1人であるアトラは、三日月との間に出来た子どもを無事に出産をしていた。孤児やヒューマンデブリを身近に見ていたクーデリアは、アトラと三日月の間にできた子供を抱き、未来が作られたという余韻が残るエンディングとなった。

 

ラストだけみれば、ある種希望のあるエンディングになっていて、個人的にはかなり好きだった。政治面は実力のあるラスタルが治め、火星の自治権が認められると同時に、その功績者の1人であるクーデリアがその座に収まった。復讐に燃えていたガエリオも戦闘による後遺症を残しながら、元の好青年に戻っている。

 

鉄華団の生き残りメンバーもそれぞれ戦争のない世界に溶け込み、「鉄華団」の活躍があったからこそ、その延長線上で生きている人間がいることを示唆していた。これは大河ドラマや洋画などでも見られる映し方で、主人公たちがたどった歴史を如実に語ったという意味では、感動できるガンダムシリーズとなった。

 

特に、ガンダムシリーズの中で主人公が明確に死んでいるにも関わらず、その子どもが生まれて次世代につながっているとわかるシーンは感涙もの。エンディング曲の中で何度も使われる写真立てのシーンがあるのだが、その写真を見ているのが、三日月とアトラの子供からの視線だとわかったときは、声を上げそうになる。

 

しかし、どうしても腑に落ちない点が3つほどある

 

このラストは確かに好きだ。だが、納得できないという感覚もあった。多くの人も触れているが、やはり尺不足や描写不足の部分は否めない感じがするからだろう。

 

ラスタルは第2クールから登場したが、単純に政治的手腕がある人間であることはわかる。しかし、彼の存在感がどんどんと膨らんでいくのは違和感があった。

 

マクギリスはギャラルホルンの改変を望み、さまざまな網を張り巡らしていた。それに対してラスタルは、現状のギャラルホルンを残そうとして動いていた。これについてはわかるし、第2シーズンでもこの2者が対峙することで、思惑が透けて見えるエピソードもあった。

 

最終回ではラスタルギャラルホルンの統治者となり、さらには民主化に向けた改革をどんどんと行ってしまう。さらには火星の支配も放棄して、自治権をクーデリアに渡す。マクギリスは結局ラスト手前で戦死するし、結局は「力」に固執する伝統崇拝者でしかなかった。そのため、マクギリスが為政者になったとしても、彼自身が考える「階級の無い政治」や「民主的な世界」を実現できなかっただろう。そのため、マクギリス討伐を行ったラスタルが、歴史の代表者として改革を行うのはわかる。

 

しかし、なぜラスタルが民主的かつ火星の自治権放棄といった改革を行おうとしたのかがわからなかった。元々は「ギャラルホルンの維持」という形でマクギリスと対峙していたし、そのために第2シーズン前半では対立していた。もし、ラスタルが早めにマクギリスの愚かさに気づき、「マクギリスでは改革は無理だ」みたいなシーンが1カットでもあれば、ラスタルが本来は民主的で、「清濁併せ呑む」人物であることにも納得できる。もしくは、ラスタルが本当に「清濁併せ吞む」のであれば、一度くらいは彼と直接話し合うシーンなどがあり、本当はお互いの目指す世界があっていないというシーンがあってもよかったと思う。それをわかるだけのエピソードが、ちょっと無かったかなと個人的には思ってしまう。

 

また、クーデリアも第1シーズンでは多く登場し、地球にて蒔苗という政治家のバックアップを受けることになる。その道中での三日月たちとのやり取りや、蒔苗との触れ合いで為政者として成長するのはわかるが、急に火星の自治権を与えられて、統治者となる辺りが急すぎるかなとやはり思ってしまう。

 

実は、第2シーズンではクーデリアにスポットが当てられたエピソードは少なく、いきなり火星を統治できるほどの活躍があったかと言えば、少し難しい部分がある。しかも、第2シーズンのはじめでは、第1シーズンで自分が地球で行ったような行動には加担しないと言っていたのに、ラストでは火星の為政者となる。これにはさすがに疑問を感じてしまう。中には、第2シーズンでも蒔苗と会話するシーンがあったので、そのシーンから汲み取るしかないのかと思ってしまう。

 

さらに、ラスタルと対峙関係にあってマクギリスだが、第1シーズンと比べて思慮のない行動が目立ったのも残念でならなかった。確かに、第1シーズンでは「仮面の男」となって暗躍し、ギャラルホルン改変のために動いていた節があった。さながら「シャア」のような立ち位置だったのだが、第2シーズンではガンダムバエルを手に入れてからは無策が目立った結果となった。

 

マクギリスについても、第2シーズンになってから「孤児」であったことが判明する。そのため、今回の『鉄血のオルフェンズ』で言えば、完全に三日月たちと同じく危険な思想を持った人間なのである。たしかに、第1シーズンからバルバトスを妙に評価している点など、今考えればギャラルホルンらしくないというか、そもそも一将校とは思えない発言はしている。だから、第1シーズンからあまり好きではなかったのだが、第2シーズンでここまでの無策っぷりを見せるのであれば、もっとサイコパスなキャラクターか、力に狂っている描写をはじめから入れて欲しかったと切に感じる。

 

 

 

 

特に、ラストにてガエリオとの会話をしたシーン。「否定しないと前進できなかった」というのは、何か物事を新しくはじめたり、ものつくりをする人ならば誰もが共感できる言葉だ。そして、改革を目指す人が陥りやすい思想を見事に表している。この名言があるからこそ、マクギリスというキャラクターが残念でならない。

 

よく考えると、一貫して「鉄華団」視点で「ガンダム」が主役だった

 

ラストのインパクトのある感動はいいのだが、その過程におけるプロットがチグハグなため、胸にしこりがのこってしまった『鉄血のオルフェンズ』シリーズ。だが、改めて考え直すと、これがあくまで「ガンダムシリーズ」であり、鉄華団たちにスポットを当てた物語なのであれば、いくらかは納得できるラストかなと思えてきた。

 

鉄血のオルフェンズ』の中で、一番ぶれなかったのは「家族」というテーマだろう。鉄華団のリーダーであるオルガも、孤児たちの居場所を作りたくて鉄華団を作り、家族に慣れる場所を作ろうと奔走した。だが、孤児たちには戦争で経験した鉄と血しかなく、彼らの生き方はあまりにももろかった。その危うさを表現しているという意味では、かなり楽しめた作品だなと思う。

 

その鉄華団の活躍を描いているのが『鉄血のオルフェンズ』であるわけだが、よく考えれば物語の軸は鉄華団にある。第2シーズンでは主役がガエリオなどに移ったように見えるし、噂では脚本家がガエリオが好きなので、視点が変わったとも言われている。しかし、ラストの展開も鉄華団たちが解散した後の時代と考えれば、ラスタルが政治に成功したことや、火星が解放されたことは些末な問題だろう。

 

大事なのは、生き残った人たちがどのように生活しているかだけなのだ。そう考えると、ラスト15分ほどのめちゃくちゃに見える道筋も、全体の鉄華団の物語としてはどうでもいいのかもしれない。実話をもとにした洋画でも、ラスト5分ほどでその偉人のその後を語るシーンなどがあるのだが、物語を楽しんだ人からすれば、それらは本編に関わる地続きの話だから、語られることに意味があるのだ。

 

なので、鉄血のラストにおいても、三日月の子供が生きており、生き残りのメンバーが何らかの幸せをつかんでいることが重要なのだ。ラストで下手にラスタル陣営の話を映すのではなくて、ずっと鉄華団のその後を映したシーンを映したり、鉄華団サイドからラスタル陣営を映すなどをすれば、もっと気持ちのいいラストだったかもしれない。

 

また、忘れがちだがあくまで今回はガンダムシリーズだ。そして、ガンダムの名前にはソロモン72柱の悪魔の名前が冠されていた。三日月たちは悪魔の名前を持つモビルスーツに乗り込むのだが、その悪魔がたどる結末と考えれば、この物語も面白いものとなる。

 

悪魔は基本的に人に力を貸す。しかし、その力には必ずリスクが存在しており、三日月たちはガンダムに乗る度に何らかの代償を支払うことになった。三日月ならば体が動かなくなっていき、昭宏ならば大事な人を失っていく。こうして三日月たちは悪魔に乗り込むことで、物語内で力を得る代わりに前進するが、徐々に力に取り付かれていく結果となる。

 

また、三日月たちは悪魔というわかりやすい名前のついたモビルスーツに乗ることで、歴史的にも悪役となっていった。そして、ラストには悪役としての役割を全うし、歴史という舞台から退出する形となったのだ。実は、敵側の主力モビルスーツである「グレイズ」だが、彼らは「ヴァルキュリアフレーム」というフレームの亜種として存在している。そのモビルスーツが三日月たちを囲んでいるのは、さながら人間が正義の名のもとに、少数民族を悪魔と決めつけて「悪魔狩り」をしている姿と変わらない。

 

このような対比として考えてみても、しっかりとガンダムは「悪役」として主役になっているし、面白い構図となって描いているのだと思う。実際にヴァルキュリアフレームに乗った人間が歴史の礎を作るようになり、敗者は悪魔となる。しかし、ガンダムと闘ったガエリオとジュリエットだけは、三日月たちを「必死に生きた人間だった」とラストに認めたのも、「結局は誰しもが悪魔にも天使にもなる」という戦争を経験した人間の示唆のようになっていて好きだった。

 

「好きだけどおもしろくない」作品があれば、「好きじゃないけどおもしろい」作品がある

 

ぶっちゃけた話、『鉄血のオルフェンズ』はラストに至るまでの展開は面白くない。どう考えても、ラストに至るまでの過程で穴があるように感じてしまう。しかし、孤児たちが必死に生きた姿を描き切ったのは非常に興味的だったし、結局ラストまでは観ている自分がいたし、こうして筆を取るぐらいには心に残っているのは事実なのである。それだけセンセーショナルなアニメだったと、個人的には感じている。だから、「好きだけどおもしろくない」作品なのである。

 

もちろん、反対に「好きじゃないけれどおもしろい」作品だって存在する。同じガンダムならば「SEED」がその典型例だし、監督が同じだけど「クロスアンジュ」も好きではないけれどおもしろいと感じる作品だった。単純に見やすくて、キャラクター達の行動理念に筋が通っているので、非常に楽しかった。

 

これはアニメだけでなく小説や映画すべてに言えることではないかと思うが、扱っている題材はいいけれど、その見せ方がイマイチであったり、反対に見せ方はよくても内容が好きでなかったりというのはあると思う。アニメや映画、小説というものは、単純に面白いものと面白くないもので淘汰される。別にそれはそれでいいと思う。

 

だが、やはりそれだけでは本当の「作品」は生まれないのだろう。普段はそこまで深く考えてアニメや映画なんて見る必要が無いかもしれない。それでも、簡単に「おもしろくない」と否定せず、「この作品は~の点がおもしろい」と感じられるようになれば、自然と視聴者の視点だって増えることを信じて、今回こうして筆を取っている節もある。アニメや映画も、そうした余裕をもって見るぐらいのほうが気持ちいいだろう。

 

数々の映画の中には、題材も見せ方も完璧な作品があるのだ。だが、『鉄血のオルフェンズ』は物語の展開的にちょっと押しつけがましい感じが出ていると思う。だからこそ、おもしろくないのである。でも、題材は今風で、ラストは感情的になってしまうものがあった。

 

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【インタビューコラム】愛媛で個人事業を営んでいる便利屋に話を聞いてみた

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愛媛を中心に「便利屋」として活動している石田和久さん。

 

地域に根差しながらさまざまな仕掛けを考え、

 

他の人ならば絶対に実行しようとは思わないような

 

企画を実現してしまう人である。

 

そんな石田さんと久々にあったある日のことを、

 

コラム調にてつづってみた。

 

1 愛媛の便利屋・石田和久さん

 

僕が街中にあるカフェで待っていると、先方はスーツを着てやってきた。僕はその人のスーツ姿をあまり見たことがなかったので、少し新鮮な気持ちになると共に、襟のない服の首元を正そうとしていた。

 

会う約束をしていたのは、個人事業主として活動している石田和久さん。彼は「ハンディーマン」という屋号で、本当にいろいろな仕事に関わっている。彼が本業として何をしているのかわからなくなる時もあるが、主にイベントの企画や運営をしている。いわゆる事業支援のようなことをしているイメージがある。

 

2 石田さんは掴みどころがない

 

仕事のイメージかもしれないが、僕は石田さんの本質というものを本当につかみきれない。それは決して仕事がいい加減とかではなく、既成概念だけで話をしないからだと思う。

 

石田さんは元々広告業界に所属しており、その中で「広告」という媒体自体に疑問を持つことが多かったらしい。それは地方だからとかではなくて、従来のものに沿って広告を作るといった、テンプレートに対する疑問に近かった。

 

「シニカルというか、アイロニーに富んだものがないよね」

 

今の日本CMの話をしているときでも、石田さんは皮肉めいたことアイデアを出すことが多かった。僕自身もアイロニーな発想は好きなのだが、彼のその発想がどこまで本気なのかわからないときがある。でも、それが人の心を動かすことがあるのを、石田さんはどこかで知っている。それに、僕自身は石田さんの固定概念に捉われていない話が好きだった。

 

アイロニーな発想が必要だと思うのは文章を書いていても思うところで、何も書いたことがそのまま事実として伝わるわけではない。宣伝は商品などを伝えることが本来の意味だと思うが、今のCMのように白いテロップだらけの宣伝で何が伝わるのか。僕にはわからない。

 

3 露骨に事業主の人が宣伝する劇とか面白いと思わん?

 

石田さんはたまにだけど、僕にそんな提案をしてくれることがある。その話とは、愛媛にいる様々な事業主に参加してもらい、その中で自分たちの事業をアピールする短編のストーリーの企画だった。僕は笑いながらおもしろいですね、と応えると共に、本気でするならば監督や撮影できる人がほしいですねと言った。

 

でも彼は、それぐらいの劇薬がないと地域で活動することは難しいし、アピールにならないと考えている。それに、もし本気で短編ストーリーが実現するとなれば、多くの人が参加できる大きなイベントになる。短編ストーリーの具体的な内容や、その規模を膨らませる石田さんの話を聞いていると、ただふざけているだけには思えない自分がいた。

 

まるで飲み屋での会話のような話をしていると思うと、その流れで自身の仕事のことを話してくれることがあるし、現代の商品ニーズや需要に関して真面目に討論することがある。スーツを着たこの男の思考回路がわからない。でも、それこそが石田さんの最大の魅力なのだと僕は思う。

 

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【1000字コラム】仕事なんて地味でいい

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取材をしていて思うのだが、仕事なんてのは生活するためにあるのだとほとほと思う。

 

こんな妙ちくりんな仕事をしている人間が言っても説得力などないかもしれないが、それでもこれは厳然たる事実で変えようのない現実だと思うのだ。

 

だから、よく言われる「自己実現」や「楽ができるから」とか、よくわからない「幸せ」と言った大義名分で仕事をする意味がよくわからないのである。

 

じゃあ私が今の仕事をしている理由と聞かれれば、それは生活の他に理由はない。よく「夢叶えたんですね」のようなことを言ってくださる方もいるが、それはあまり本質を捉えたものではないと感じる。残念なくらいに、自分には書くこと以外で収入を得る想像ができなかったから、その仕事をしているにすぎない。

 

仕事を決める際、みんなはどのように決めているのだろうか。

 

私の場合は学生時代にリーマンショックがあっただけでなく、言わば「ゆとり世代」と大人たちがいう教育によって、「バブル期」と次の時代の中継ぎのような世代として育てられた。時代が大きく移っていく中で、大人たちもこれからどうしていいかわからなかったのが、そのまま形になった世代でもある。

 

もちろんすべての子供がダメというわけではもちろんなく、きちんと仕事を見つけて働いている人も多くいる。問題なのは「失敗」を認めたくないために「ゆとり」なんて括って報道することだ。これではしっかり働いている同世代に申し訳ないし、大人たちは罪悪感を抱かないのかと疑ってしまう。

 

とにかくそんな世代の人間で、その環境で私が考えたのは「何をしようか」よりも「どうやって生きていこうか」ということである。バダバタと仕事先が無くなる中で、どうすればインチキのような教育を受けた自分が生き残れるのか。この一点ばかり考えていた気がする。

 

私の受けていた教育では、受け皿の職場が一定の雇用数を確保できることが前提としてあったと思う。しかし、それができないのに「とりあえず大学」なんて言われて進学し、その言葉を鵜呑みにしていた自分は反省すべきだと今でも思っている。

 

だから、今さらバブル期や団塊の世代を責めるつもりはない。

 

彼らに謝罪や責任を求めて解決するのであれば、すでにこの世は何らかの変化を見せているはずだ。それがないのであれば、そんな無駄なことはするべきではないだろう。怨みがないと言えば嘘になるが、それでもすべきでないのは、先代をただ恨むと共に「夢」だけを語ることだろう。

 

「夢」とは現実にないものである。しかし、人に強い希望を抱かせるものだ。夢や希望は必要だと思う。問題なのは、その夢を叶えることに囚われて、生活が成り立たないことである。

 

例えば、自分よりも上の世代をひがむばかりの仲間だけを集め、仲間だけで新しい「夢」のある事業を始めたとする。それ自体はいいことかもしれないが、果たしてそれは誰かの「夢」になるのだろうか。

 

私が思う「仕事」をしている人は、別の誰かに希望や夢を与えているように見える。それが私の「仕事」に関して大きく抱くイメージで、そんな仕事ほど地味で、生活に根付いている。

 

現代では本当にさまざまなサービスが生まれていて、何でも仕事にしようと思えばできる。だが、その仕事をしようと思うとき、それが自分の肥やしを増やすだけのものなら、おそらく誰も付いてこないだろうし、ファッションとして扱われて終わるだろう。

 

「書く仕事」は減ったとしても「想いに輪郭を与える」ことに終わりはないだろう。

 

今では自動手記や音声入力の技術が発達しているが、それによって自分の立場が脅かされるとは思っていない。それは別に今の仕事にプライドがないというわけでなく、むしろ「胸に詰まる想い」を形にすることが、自分の仕事だと思っているからである。ただ書くだけならは誰にだってできるだろう、しかし私がしているのは、思いを伝えるための「フォーム」作りである。こうした本質に触れられるかどうかが、仕事を選ぶ際に一番大事なのではないかと私は思ったりする。

 

個人だろうと勤め人であろうと、仕事を決める際には色々な理由や思いがあるだろう。しかし、その前に自分が今できることと本質を掴むこと、その仕事で将来どういう生活をしたいかを考えるほうが、世界平和や幸せよりも大事ではないかと思ったりする。私ならば、そうした部分を元に仕事を選びたい。

 

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【1000字コラム】平等を説く際に陥る逆説

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闘うことを望む自分

 

最近の自分の中で大きな変化と言えば、別に闘うことを否定しなくなってきているところだと思う。色々な環境による変化や元々の田舎っぽさの再発なのかわからない。

 

ただ、協調とか助け合いというのが、今では「引っ張り合い」にしか聞こえないことが多く、それに対するアレルギー反応かもしれない。だが、世に言うクレームや抗議運動に矛盾を感じざる得ない自分がいて、その行動に辟易とする自分がいる。

 

「平等」を謳うことの矛盾

 

blogos.com

 

 よく「女性にも権利を」や「貧困で身動きできない人にも生活を」という活動を見かける。ほかにも心のケアやカウンセリング、東京で見かけて驚いたのは、人通りの多い新宿駅前で平然と宗教活動する人が多くなっていたことである。別にこれらの活動自体を否定するつもりはないが、私はその活動に共感はできないだろうし、将来それらの活動が日本を変えることもないだとうということである。

 

行動することは悪いことではない。何もせずにただ持論を並べるだけよりは健全かもしれない。しかし、その健全性が正しいというわけでもない。これらの権利を主張する人たちの言葉を聞いていると、基本的には「~と同じに」という言葉を聞く。しかし、これには個人的に矛盾を感じる。

 

たとえば、女性の権利を主張する際に「男性と同じ職場環境を」というものを訴えていたとしよう。しかし、女性には女性にしかできないこと、男性には男性にしかできないことがある。この2つが一緒になることは生物学的にはなく、この違いを元にルールを敷いたり、日々の生活を送っていると思う。

 

もちろん、現代のルールが完璧だとは思わない。これだけ女性が社会に出ているにも関わらず男性主体のルールだし、男が稼げない時代なのに社会はまだ男性社員を求める傾向にある。これらについては言葉を投げていいと思うが、ただ「男性と同じ権利を」というのは、あまりに現実を見ていない意見だと感じてしまう。

 

 否定ではなくて「現実を見る」力が必要

 

別に自分が男であることや女であることを嘆く必要はないし、別の国籍を羨やむ必要はない。問題なのは、結局のところ現実を見ずにさまざまなことを述べるところにあるのだと思う。実のところ、私も完全に「貧困」なるのを体験しているわけではないだろうし、知っているわけでもない。だが、一般的な生活を送っているとされる人から見れば貧困かもしれない。とどのつまり、その「貧困」さえ定義があいまいで、誰も本当の貧困なんて知らないのだと私は思っている。

 

これは男女の性差別でも同じで、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」や「チョコレート・ドーナッツ」、「ブローバック・マウンテン」を作れるほど性差別問題を経験していないし、その現実さえ知らない。国が違うので同列で語ることは難しいが、自分たちは何も知らないという事実は変わらないと思う。

 

ここで勘違いしてはいけないのは、別にそうした現実に触れたからと言って、その現実を知っているとは違うということである。こうした現実に触れただけで知ったつもりになったのであれば、それは練習しか経験したことのない国体選手と同じということだと思う。

 

本当に何かを「知る」ということは、そんなに簡単なことではない。だからこそ色々な人がいて当然だと思うし、その1人1人と仲良くする必要なんてない。時にはコブシを交えるほどの付き合いがないと、その人のことなど本当に理解したなんて言えないのではないだろうか。

 

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【行ってみた】サイバーコネクトツーにいる松山さんに会いに行った話

普通にサイバーコネクトツーで遊んでしまった

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年末も暮れに暮れた時期、東京事務所の「サイバーコネクトツー」にいる松山洋さんに会いに行きました。

 

私がパーソナリティをしているインターネットラジオへの出演をきっかけに、今回の訪問が実現したという感じです。

 

ゲーム好きのライターがゲーム会社を訪問してはしゃいだ様子や、ゲーム開発に携わりたい人におくる備忘録。 

 

サイバーコネクトツーに行きました 

 

ラジオでの共演をきっかけに

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honmaru-radio.com

 

 

愛媛発のインターネットラジオにて、パーソナリティをしていた私。ひょんなことから「サイバーコネクトツー」の松山洋さんに出演いただき、ラジオを取ることとなりました。

 

そんなこんなで面識ができ、厚かましくも「東京で会えますか?」と打診すると、「OKです」という返信をいただけることに。

 

で、早速東京にできた「サイバーコネクトツー」に行ってきました。

 

そもそも、「サイバーコネクトツー」とは?

www.cc2.co.jp

 

サイバーコネクトツー」は設立から20周年を2016年で迎え、本社は福岡県。カナダのモントリオールにも新しくスタジオができるとのこと。

 

サイバーコネクトツーといえば「ナルティメットストーム」シリーズや「.hack」シリーズで有名。僕は松山さんも開発に関わっていた「サイレントボマー」という作品も知っており、会社のディスプレイにも並んでいました。

 

しがないライターにもお出迎えを 

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さっそくサイバーコネクトツーを訪問すると会議室に通されて、そこには私の名前と共に「ようこそ」というお出迎えが。しばらく待っていると、ドアが開くと同時に「ひさしぶり」と元気な挨拶と共に松山さんが入ってくる。

 

簡単な挨拶をした後に会社の説明をしていただいたのだが、会社でも挨拶を大事にしているとのこと。 職場見学をさせていただいたときも、部屋に人が入るだけで社員の方々は一斉に立ち上がり挨拶をしてくださる。

 

松山さんは番組などされているので見ている人はご存知だと思うが、とにかく熱い人である。

 

www.youtube.com

 

そういう熱い人だからこそ、ラジオで少しだけ会った私にもこうして時間を割いてくれるし、 会社にも活気があるのだと感じた。

 

ゲーム会社も人材不足なそうです

 

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会議室にはナルトのゲームだけでなく、フランスの方で作ってもらったナルトのフィギュアが展示されていた。魅力的なゲームを作っているからこそ海外でも愛されているのがわかるが、ゲーム作りにおいて無理は仕事スケジュールはさせないとのこと。

 

 

あくまでクオリティを追求するため、無理な仕事を強いることしないというのは、かなり納得のいく考え方。でもその反面、ゲーム業界もなかなかの人材不足で悩んでいると松山さんは語っていました。

 

 

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会社説明の中でもインターンの話は出てきたし、ゲーム開発における大事なことを講演していることも出てきました。

 

 

そもそも愛媛にやってきたのも、全国のプログラミング関係の学校を歩いて講演するためだったから。その中でもゲーム開発に必要なものや、気持ちの上で掲げるべきことを話していたそうです。

 

 

僕が訪問したときでも、ゲーム会社に就職したい人たちは多くのギャップを抱えていると考えており、ミスマッチが多く発生しているという。それを払拭するためのインターンだし、講演を全国回ってでも行うことが重要だと話していました。

 

 

そもそもゲーム会社に就職できる人は少数で、倍率にすると50倍なんてザラとか……。でもよく考えると、多くの人に手に取ってもらうゲーム開発が簡単にできるという発想のほうが、間違っているのかもしれません。

 

 

そのギャップを埋めるためにも、サイバーコネクトツーではインターンをして人を育てるしかないと考えているとのことです。

 

ファンと共にあるゲーム

 

サイバーコネクトツー」の歴史

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ロビーで記念撮影を終えた後、松山さんは仕事のため退席。その後は広報を担当する方に案内をしていただくことに。

 

 

会社ロビーにはサイバーコネクトツーが生み出してきたゲームが展示されています。やっていないゲームには「テイルコンチェルト」などがあったが、それ以外は基本触っていたことに自分がちょっと驚きました。

 

 

反対を言えば、一度は手に取ってしまう魅力的なゲームを輩出しているのがわかります。正直な話、ラジオでの対談や来訪してはじめてサイバーコネクトツー製のゲームだったのを知ったものもありました。

 

youtu.be

 

次回作もすでに調整段階で、いよいよリリースまじかとのことです。

(あまり書くとステマと言われかねないのでここまで笑)

 

 

でも2003年に出た「ナルティメット」シリーズも気が付けば2017年まで続いていると考えると、本当に愛されているなぁとは思います。僕が中学のときから続いている訳なので、そりゃ自分も年を取るわけです。

 

ロビーには一般ユーザーが遊べる場所も 

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 ロビーには一般ユーザーでも楽しめる場所が設けられており、会社訪問の記念に押せるスタンプもあったりします。これは東京と福岡で違っているので、新しくできるモントリオールでも違うものになるのでしょうか。

 

 

あと、ロビーにはノートもあって誰でもメモできたり、ガシャポンも用意してあります。ロビーまでなら誰でも立ち寄れるので、ガシャポンを回しに行くだけでもいいかもしれませんね。

 

1人のユーザーとして楽しんだ

 

とりあえず、サイバーコネクトツーでの体験談はここまで。自分がプレイしていたゲームの開発環境に飛び込めたのは、非常に貴重な経験でした。

 

 

今の時代に10年以上もゲームシリーズが続いているのは珍しいと思いますし、その裏側にはこだわりがあるのも見えてきました。

 

 

でも、現場には人がいないのも現状なようですので、この記事を読んだ人が1人でもゲーム開発を志していただけると個人的にはうれしいかなと思います。

 

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【1000字コラム】情報のインプットとアウトプットにおける人と機械の差異・1

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http://rocketnews24.com/2015/07/02/603628/

 

1.機械に奪われる人の仕事

 

現代では数々の仕事が機械に奪われ、そのうち人のやる仕事は無くなる。

 

これは科学者や学者がよく言っていることで、SF小説や映画でも提唱されることである。

 

これに加えて人工知能の発達により、さらに機械は人に近づいたことになる。

 

機械化の波に人は悲観的になり、次第に仕事が無くなると明日のわが身を呪ってしまいそうになる。

 

しかし、私としてはアンドロイドや機械にすべての作業を任せるようにならない限り、

 

まだまだ機械に作業をインプットする側の私たちにできることはあると感じる。

 

それに、人間が動物との違いを見出してきたように、

 

人工知能を含んだ機械が人間との違いを生み出すには

 

エクス・マキナ」ぐらいの技術力が必要になってくるだろう。

 

2.映画「エクス・マキア」とは

 

エクス・マキナ」とは2015年に公開されたイギリスの映画である。

 

特殊な検索エンジンを作る会社の社長が、その検索エンジン

 

さらに発展させた人工知能を持つアンドロイド「エヴァ」を作り上げる。

 

そのアンドロイドの思考実験をするため、検索エンジン会社に努める男性社員と

 

エヴァの会話が繰り広げられるのが本筋となる。

 

その中で人間とアンドロイドの思考ゲームがはじまるのだが、

 

人工知能の人間との謀略の様子はまさに、

 

人間の生き残ろうとする行動と何ら変わらなかった。

 

3.人も元をたどれば自然の中の「機械」である

 

劇中では人間の定義するところが語られるシーンもあったりするが、

 

その過程では呼吸することや恋愛をすること、心臓を動かすことなど

 

人間の根源的な生きることについてはすべて「プログラム」であると語られる。

 

そもそも人は機械的であり、実は人間が機械的だからこそ

 

アンドロイドを生み出しているのではないかという暗示さえある。

 

私もこれは思うところがあり、人は結局プログラム通りに

 

動いているのではないかと思うことさえある。

 

人が子孫を残そうとするのは動物的なプログラムで言えば当然であり、

 

それに抗うことのほうが実は苦痛なのではないだろうか。

 

もちろん、人によって差異は出てくるだろうが、これは

 

厳然たる事実として受け止め化ければいけないのだろう。

 

4.「コンフリクト」こそ人の力

 

人間が人間たる力とは何だろうか。

 

私が思うのは「悩む力」だと思っている。

 

人は悩むからこそ考えるし、

 

自分に置かれている状況を打破しようとする。

 

人は悩んだ末、自分のコピーであるアンドロイドを生み出した。

 

その結果が機械化であり、自分たちのコピーを生み出したために

 

自分たちの仕事が無くなっていくのも当然の帰結であるように思う。

 

私たちがコピーに勝つ方法、それは

 

やはり「悩む」という不合理で、機械ならば

 

絶対に取らない行動なのではないだろうか。

 

人間的成長を捨てない限り、私はまだ

 

人間の社会に絶望するには早いと感じる。

 

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【1000字コラム】「WELQ」をはじめとするまとめサイト記事の問題は今にはじまったことではない

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1.「WELQ」問題なんて氷山の一角

 

headlines.yahoo.co.jp

 

今、「WELQ」をはじめとするキュレーションサイトにおける記事の是正について話題が飛び交っている。

 

これはライターにとって死活問題のように見えるが、それはそのサイトで稼いでいる人に限ったところであると私などは思っている。

 

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たしかに、案件としては多数存在しているかもしれない。

 

私も以前は執筆していたことがあるが、その無意味さをブログにしたことがある。

 

元来、キュレーションサイトの記事なんて本業ライターはお小遣いをちょっと稼ぐときぐらいにしか執筆していないかと思うし、私も現在はキーワード先行の記事は執筆していない。

 

実際、1文字1円以下で書かされている現実はあるだろうし、そのような案件をたくさん見てきた。

 

だが、本業ライターならばそのような案件がどれだけ意味がないものと判断し、すぐに手を引いているのではないかと思ったりする。

 

情報とはネットで語られるものではなく、終着点でしかないからである。

 

2.あるサイトを運営するセミナーでの一幕

 

私は東京で、とあるライター向けの無料セミナーに参加したことがある。

 

そこではメディアライターとしての文章の書き方について語っており、基本的にはネットで検索した情報を元に文章を書く講座内容になっていた。

 

私は「無料なりの内容だな」と思いながら講習を受けていたが、その中で1人の受講者が「ネットの情報にある数値や方法が事実だと確認するためには?」という質問を投げていた。

 

それは私も常に感じているところなのだが、質問を受けた運営側は少し答えに詰まっていた。

 

やっと出た答えというのが「検索して同じ情報が多ければ、それを信用する」という感じだった。

 

だが、ネットでは悪貨が良質を駆逐するごとく、コピーされた情報によって本物の情報が見え隠れすることは多々あると私は思ったりする。

 

3.洋画ではすでに語られた問題

 

こうした情報の問題は、新聞ではあるが「ニュースの天才」ではすでに描かれた問題である。

 

大手メディアから発信される情報ならば真実であるという刷り込みにより、誰もが大手メディアで書かれた記事については疑うことがなかった。

 

しかし、その思い込みによりある記者がゴシップだらけの記事を大手新聞に載せてしまう実際の事件を映画したのが「ニュースの天才」である。

 

映画や今回の「WELQ」において、問題を起こした側が糾弾されるのは仕方ないと思う。

 

しかし、受け手である私たちが情報に対する感度が低く、それを精査する術が無かったことも事実だったのではないかと思ってしまうのである。

 

新聞にしろネット上にしろ、それは情報を得る場所でしかない。

 

だから、そこにあるからと言って絶対に正しい情報が載っているわけではないことを、やはりこうした情報送受信時代には、もっと自覚すべきなのではないかと思わざるを得ない。

 

もちろん、書き手として正しい情報をわかりやすく伝える義務はあるのだが、そこに対して受け手からはむしろ疑ってほしいぐらいである。

 

そうした目があることで、書き手や情報発信者はいい意味で緊張を覚えられるのではないかと私は思ってしまうのである。

 

それは揚げ足取りをするためではなく、悪貨が良質を駆逐するのとは逆の作用を期待したいからだ。

 

4.どのような情報ならば信頼できるのか

 

では、どのような情報ならば信用できるのかと言えば、やはり人の生の声に他ならない。

 

誰かの経験や体験したこと、情報をヒアリングしてまとめ直す。

 

これこそが書き手がやることであり、メディア本来が持つ意味なのではないかと思う。

 

だから、きちんと記事のことについて知っている業者は「情報」にお金を払う。

 

取材費、移動費、情報を得る時間……。

 

きちんとした記事を制作する会社は、これらの部分にお金を使う。

 

反対に、安く上げようとする会社ほど、これらの部分にお金を出さない。

 

私も仕事を受ける際は、この部分に注意して契約を結ぶことが多い。

 

何文字書いたからそれだけのお金を払うのではなく、

 

その情報がどれだけの価値があって、どれだけのお金を動かしたいのか。

 

それを考えるべきだと思ったりする。

 

5.若い人はネット記事やランキングを意識しない

 

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これも以前記事にしたが、最近の10代や20代前半はネット記事にそこまでの信頼を寄せていないらしい。

 

それはSEOの仕組みで作られた記事であることをしっており、その記事の信ぴょう性が薄いことを知っているからである。

 

だからといって別のサイトやSNSだけに事実があるとは言わないが、やはり情報を本当の意味で「編集」し、広く多くの人に伝える技術や方法が求められている。

 

そうした時代になっていることを、私は今回の件から痛いほどに感じてしまうのである。

 

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