恥ずかしながら「恋愛」について語ってみる~500日のサマーから見る現代の恋愛観~
僕がこよなくあいする映画の中に「イルマーレ」という映画がある。
過去にこの映画について執筆したこともあるので割愛するけれど、この映画を見るたびに「結局恋愛が語られるのは映画の世界だけか」と思ってしまう。
前にとある女の友人と話していたのだが「恋愛もプロセスがあるからね」なんていうことを語っていたのが懐かしい。
恋人や結婚など、誰かと生活するとなれば好きだの何だのだけでは済まないけれど、やはり僕としては、それだけでは納得できない部分がある。納得できないと言うか、やはり「人間」足らしめる何かを、夢物語を書く側の人としては証明したくなってしまう。
僕自身、そんな恋愛経験が豊富なわけでもなければ、とんでもない恋愛をした経験もない。……いや、ちょっと驚く人と同じ時間を過ごした経験はあるか。でも、その人とどうこうなりたいとか、そんなことを思ったことはなかった。僕にとってその人は特別でもなかった。運命というものがあるなら、それを感じられなかった。そういうことである。
運命。
それがあるのかどうかはわからない。でも、相手に運命を感じさせる努力はできると思う。
「500日のサマー」という映画
僕が好きな恋愛映画に「500日のサマー」というものがある。
この映画は、とある男女が500日間恋人同士になるのだが、結局は別れて女性は別の男性と結婚することになる。
ヒーローもヒロインも、劇中では愛し合っていたし、ヒーローは幸せそうだった。しかし、ヒーローのほうはロマンチストで、どこか恋愛に夢見がちなところがあった。いわゆる「運命」と言ったものを信じている節があった。
劇中でも恋愛を楽しむヒーローに対し、ヒロインは次第に心が離れていく。ヒーローの恋愛観は、相手との時間を楽しむというよりは、恋愛している「自分」を楽しんでいる節が、端々に見えてくる。500日の間に、ヒロインから見えるヒーローのあり方の変化が、「500日のサマー」ではきれいに描かれている。
「500日のサマー」から考える現代の恋愛観
昨今、晩婚化や少子化、草食男子、お一人様など僕たちを囲む人付き合いの環境は著しく変化している。その中で「婚活」や「街コン」など、出会いの場を通して結婚相手を探す活動も増えている。ただ、「500日のサマー」を見た後だと、その場で結婚相手が見つかるようにはあまり思えなかった。
僕は運命はないと思う。あるのは偶然で、その積み重ねを「運命」なんて呼ぶんだと思う。言ってしまえば、理想の女性や男性なりを「運命たろう」とする努力を自分でするのか。そっちのほうが大事な気がする。
結婚による生活のリスクや、相手を「しあわせにする」ことよりも、自分が幸せになることを考える人は増えているかもしれない。でも、相手が幸せになることで自分も幸せになるんじゃなかろうか。少なくとも、社会を形成する僕たちには、潜在的にそのような遺伝子が組み込まれていると僕は信じたい。
地獄か pic.twitter.com/Dq9aBgf8gL
— 涅槃 (@xrayspex7) 2015年9月26日
いま、ツイッターでは「誰かと一瞬に生活するのめんどい」や「結婚したい人がいない」、「結婚コスパ悪い」など、誰かと生活を共有することにネガティヴな意見を多く見かける。確かに、誰とも結婚しなかったり1人で生きるのも自由だ。それに、何らかの事情で結婚や異性へ感情をぶつけることが難しい人もいる。こうなってくると、結婚という制度さえ古めかしくて、改善する必要さえあるのかと思う。
でも、誰かといたいのに「いい人がいない」や「仕事のせいで出会いがない」というのは、いささか努力不足な気がする。それに、誰かと何かを分かち合う幸せを否定すれば、なにか生き物としての根幹的な部分を否定するような気がしてならない。
誰かと一緒にいたいならば、自分が変わることも大事だけど、他者に自分から働きかけて「一緒にいたい人」や「幸せ」を感じさせるように変化させる発想や努力だって、僕は必要なんじゃないかなと思ったりするわけだ。
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