ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

【1000字コラム】平等を説く際に陥る逆説

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闘うことを望む自分

 

最近の自分の中で大きな変化と言えば、別に闘うことを否定しなくなってきているところだと思う。色々な環境による変化や元々の田舎っぽさの再発なのかわからない。

 

ただ、協調とか助け合いというのが、今では「引っ張り合い」にしか聞こえないことが多く、それに対するアレルギー反応かもしれない。だが、世に言うクレームや抗議運動に矛盾を感じざる得ない自分がいて、その行動に辟易とする自分がいる。

 

「平等」を謳うことの矛盾

 

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 よく「女性にも権利を」や「貧困で身動きできない人にも生活を」という活動を見かける。ほかにも心のケアやカウンセリング、東京で見かけて驚いたのは、人通りの多い新宿駅前で平然と宗教活動する人が多くなっていたことである。別にこれらの活動自体を否定するつもりはないが、私はその活動に共感はできないだろうし、将来それらの活動が日本を変えることもないだとうということである。

 

行動することは悪いことではない。何もせずにただ持論を並べるだけよりは健全かもしれない。しかし、その健全性が正しいというわけでもない。これらの権利を主張する人たちの言葉を聞いていると、基本的には「~と同じに」という言葉を聞く。しかし、これには個人的に矛盾を感じる。

 

たとえば、女性の権利を主張する際に「男性と同じ職場環境を」というものを訴えていたとしよう。しかし、女性には女性にしかできないこと、男性には男性にしかできないことがある。この2つが一緒になることは生物学的にはなく、この違いを元にルールを敷いたり、日々の生活を送っていると思う。

 

もちろん、現代のルールが完璧だとは思わない。これだけ女性が社会に出ているにも関わらず男性主体のルールだし、男が稼げない時代なのに社会はまだ男性社員を求める傾向にある。これらについては言葉を投げていいと思うが、ただ「男性と同じ権利を」というのは、あまりに現実を見ていない意見だと感じてしまう。

 

 否定ではなくて「現実を見る」力が必要

 

別に自分が男であることや女であることを嘆く必要はないし、別の国籍を羨やむ必要はない。問題なのは、結局のところ現実を見ずにさまざまなことを述べるところにあるのだと思う。実のところ、私も完全に「貧困」なるのを体験しているわけではないだろうし、知っているわけでもない。だが、一般的な生活を送っているとされる人から見れば貧困かもしれない。とどのつまり、その「貧困」さえ定義があいまいで、誰も本当の貧困なんて知らないのだと私は思っている。

 

これは男女の性差別でも同じで、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」や「チョコレート・ドーナッツ」、「ブローバック・マウンテン」を作れるほど性差別問題を経験していないし、その現実さえ知らない。国が違うので同列で語ることは難しいが、自分たちは何も知らないという事実は変わらないと思う。

 

ここで勘違いしてはいけないのは、別にそうした現実に触れたからと言って、その現実を知っているとは違うということである。こうした現実に触れただけで知ったつもりになったのであれば、それは練習しか経験したことのない国体選手と同じということだと思う。

 

本当に何かを「知る」ということは、そんなに簡単なことではない。だからこそ色々な人がいて当然だと思うし、その1人1人と仲良くする必要なんてない。時にはコブシを交えるほどの付き合いがないと、その人のことなど本当に理解したなんて言えないのではないだろうか。

 

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