ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

僕たちはネズミと同じである~「新世界より」を読んで思ったこと~

1 先日、私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。 

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www.glocallife.net

 

先日、こちらのブログ主さまにて私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。私としても、映像を見るのが苦手な人の意見はとても貴重なので、参考になりました。

 

ちなみに、ご紹介いただいたのはこちら。

↓↓↓

ryuuraita.hatenablog.com

 

さてさて、今回は映画ではなくて漫画(小説)を元に話をしていこうと思います。

 

僕は仕事で、漫画を紹介するような仕事にも携わっています。その中で「新世界より」という、貴志祐介氏によって書かれた小説を元に、コミカラズされた本を執筆することに。

 

原作はちょこっとだけしか知らなかったので、漫画を読むのは個人的に楽しかったです。で、その中で出てくる「バケネズミ」という存在がいるのですが。このバケネズミをコミカラズするに当たって「かなり力を入れたな~」と個人的には思ったりしながら読みました。でも、それ以上に「僕たちはネズミと何も変わらないなぁ」と、同時に思ったりもしました。

 

2 人はネットにて広い世界を手に入れていない

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headlines.yahoo.co.jp

 

もうすでに過去のことのようになっているが、アイドルが20か所も刺されてしまうニュースが飛び込んできた。刺された箇所から異常性はうかがえるし、何があったかなんて推測するつもりはない。ただ、僕が言及したいのは「ネズミと同じ」と言う点である。

 

新世界より」にて 出てくるバケネズミは、とある方法にて人間と同じように言語を理解し、二足歩行にて生活している。そして、ネズミの習性はそのままに集団にて生活を保っている。この集団には「女王」が存在し、その王の元で繁栄している。

 

僕はこの部分を漫画で読んで、別に人間も変わっていないと感じた。言語を使おうと使わないであろうと、同じ「集団」で暮らしている点は同じである。その広さや言語による集団の棲み分けが違うだけで、やっていることは何も変わらない。

 

「女王」を「言語」に変えても同じだし、「国」に変えてもいい。僕たち人間は、何かに属して生きているわけである。それにいい・悪いのどちらも感じながら、僕たちは生きているわけである。

 

でも、ネットでは少々理屈が違ってくる。ネットでは割と自由に所属先を選択できる。自分が居心地のいい場所にて会話をし、意見を述べる。よく掲示板などを見る人は感覚的に分かると思うが、1つの事案でも全く正反対の掲示板が存在することは多々あることです(昨年の安保法案はいい例だと思う)。

 

じゃあ、ネットを中心に物事を測るようになるとどうなってしまうのか。その1つの居場所が自分のよりどころとなり、ほかの意見に対する抵抗力が弱くなってしまうと僕は思う。自分の意見ばかり立てる人の環境は、あまりいいとは思っていない。むしろ、混合玉石の状態に身を置くほうが、バランス感覚は付いてくると僕自身は信じている。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。

 

これ以上は部外者だから何も言えないけれど、この記事やアイドルの案件から言えることは、ネットと言う何も介在しない場所でも、僕たちはいつの間にか何かに「所属」しようとしている点である。

 

加害者の男性は、アイドルに対して自分の所属できる場所を抱いていたのかもしれない。でも、唯一所属できるかもしれない場所=世界への経路を閉ざされた気持ちになったのではないかと、記事やニュースを見て僕は思ってしまった。誰にも相談できず、ただひたすらに「つながりたい」という欲望だけが……。

 

想像でしかないので言及しないが、僕たちは何かに所属したり認められることに躍起なのである。この「認められる」という点では、むしろネズミを凌いでいるかもしれない。

 

3 やたらと「つながること」はいいことか

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zasshi.news.yahoo.co.jp

 

リスクを回避するために、たとえば自分の本を出版した際にも、サイン会や握手会といったイベントの類いのものは一切やっていません。誰だからわからない人と接触するのは、それほどまでにリスクが高いことなんです。

 

 僕はこんな性格だから、「いい」と言われたものには何か裏がないか考えてしまう。紹介している記事にもあるように、人と会うにはリスクがあるし、相手の時間も奪っている。でも、色々とフリーになっている現代では、そうした垣根や警戒心が薄れているのも事実な気がする。

 

たとえばだけど、僕もネットにて「仕事のことで会いましょう」と急に言われたことがある。僕はその人と会うことになったのだけれど、時間にルーズで約束の時間通りにやってこなかった。僕は「なにかあったのですか」と聞いたけれど、別に用事はなかったらしい。

 

その日、彼が僕にした話と言えば、ネットビジネスの押し売りだった。僕はその間仕事もできず、ずっと彼の話を聞くだけで終わってしまった。事前に何のことかもっと聞けばよかったのだけれど、僕にとっては損害以外の何物でもなかった。彼は何も悪びれる感じもなく、断わったぼくを石でも見るかのように去ってしまった。

 

簡単に個人へアポを取れる環境は、大きなビジネスチャンスを生むことに違いない。また、彼にとっては新たな同志を見つける大きなチャンスだっただろう。でも、その思い込みが個人の「なにか」を奪うのだ。

 

今回のアイドルの件や個人的に感じる部分を含め、ネット環境によって「つながる」ことを見直す時期がやってきている。そんな気がしてならない。

 

4 さいごに

 

 

新世界より」にもあったように、既成概念にとらわれた種族や人類は、衰退の一途を辿っている。同じように、高い文明を扱いきれず邁進し続ける種族も衰退する。結局はこのどちらかを繰り返すしかないのかと思うと、僕は少々辟易としてしまう。

 

このやり取りは「バブル世代」と「ゆとり世代」と全く同じ構図であるように感じる。どちらかが「オヤジだから」と言えば、またどちらかが「これだからゆとりは」と言ってしまう。これと同じである。

 

ネットという道具は非常に便利である。ただ、一歩間違えば簡単に「ネズミ」と同じような生活になってしまう。「新世界より」という作品は、そんな怖さを伝えていたのだろうと僕は思った。

 

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「2時間の映画に耐えられない」のが現代人の嗜好

1 映画館で2時間座ってられない

 

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僕が先日会った人は「映画が苦手」と言っていた。映画好きの僕としては聞き捨てならず「なんで?」と聞き返すと、「2時間もじっと座ってるなんて耐えられない」とのことだった。
 
なかなかの理由にあんぐりとしてしまったのだけれど、昨今の映画不況を考えればいいわからなくもない。ただ、その人の話を聞いていくと、映画が「つまらない」というよりも、そもそも「映画を観る価値がわからない」という感じだった。
 

2 映画をなぜ観るのか

 

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映画を観る理由はさまざまである。自分では体験できない経験や人生を経験するためや、趣味として見る人もいる。あるいは、シナリオや映像を仕事にしている人が勉強として見たりする。
 
他の理由としては、他者との時間共有のために映画を手段にすることもあるだろう。簡単に言うとデートである。でも、最近はデートに映画を選ぶ人も少ない気はするものだ。
 
紀伊国屋」のとあるコーナーに「昔の人と今の人ではこんなにデートの価値観が違う」というものがあった。「昔」とは主に高度経済成長からバブル期を指しており、そこには高級志向が立ち並んでいた。ブティックやレストランなど、そのような場所にてデートをするのが一般的だった。
 
しかし、今ではモールやチェーン店、カフェでのお手軽な場所にてデートするのが主流となっている。昔に比べればカジュアル思考が強いと共に、僕は実益を兼ねているように感じた。
 

3 無駄が嫌いな現代人

 

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何かと「お金」と「時間」にうるさい昨今であるが、それは私生活にも浸透しつつあるのだと僕は思う。これが「映画離れ」の一端にもなっているのだと、僕は多少なりとも思うわけだ。
 
最近の若い人は2時間ドラマでも、最初から最後まで理解するのが難しいらしい。よく前のチャプターやシーンに戻りつつ内容を把握するするとか。単純に「理解する力の低下」という言葉で片付けるのはナンセンスだろう(事実、歴史に対する認識の低下を考えれば、もちろん0ではない)
 
しかし、現代に溢れるコンテンツを考えれば、2時間の物語を理解できないのも納得してしまう。
 
 
この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。
 
前の記事でも取り上げたが、今では1秒の動画がある世界。そして、短いコンテンツをたくさん楽しむのが現代風である。小説でいえば短編だろうか。
 
短いコンテンツが売れるのは、「二次創作」の流行とも結び付く気がする。1つのコンテンツから派生する別のコンテンツは、根元では共通部分がある。長い1つのものを楽しむのではなくて、自分が「おもしろい‼︎」と感じたものを手を替え品を替えて楽しむ。これならば、自分が一度気に入った「おもしろい‼︎」だからハズレを引く心配もない。忙しい現代人なりの楽しみ方なのかもしれない(これに味を占めて続編の嵐となり、コンテンツの質を低下させている側面もある)
 
この流行を考えると、やはり2時間もの時間で、さらに新しいもので現代人に「おもしろい‼︎」と思わせるのは、至難の技にも思う。
 

4 余裕のない国、日本

 

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僕はギリギリ昭和の人間だし、映画が好きだから言う。無駄が大好きである。
今の人みたいに、すべて時間とお金を引っ付けて考えることはできない。そんなギスギスした生活はまっぴら御免である。
 
しかし、現在の日本は貧乏である。これは今後僕たちが自覚しなければいけない事で、とくに「日本は戦後から立ち直った」と錯覚している人たちに突きつけなければいけない現実である。
 
 
この記事からもわかる通り、世界では物価は上がっている。それに対して日本では、物価は下がったままで円を大事にしている。
事実、外国人が日本を旅する事がおおくなっている。これは、自国で稼いだお金で日本に来るのは容易になっている表れだろう。僕が住む地域でも、心なしか外国人が増えたような気がする。
 
それだけで国の豊かさや価値を表すことはないが、現実問題として日本での住み辛さって上がってきている気がする。老人の今後だけでなく、将来を担う子どもに無頓着な運営。だめなことが分かっているのに、なかなか変えられない現実。
 
このむず痒さは異常のような気がするのだが、結局はデモや書き込みだけで終わってしまう残念さ。本質から変えるには、やはり政治や中央政権から変わるしかない。だけどその前に、自分たちが変わる必要がある。「攻殻機動隊」という有名なアニメの主人公も言っていた。
 
世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。
 
変わりたい気持ちは大いにあるのだと思う。でも、やるべきこともせずに「理想郷を作ろう」と言われても、その言葉は空虚である。ただ「世の中をよくしたい」や「保育園落ちた死ね」には恣意的なものを感じるし、本当はどうしたいのか見えない。だから、あまり支持する気持ちになれないんだと思う。
 

5 政治家が嫌がる事じゃなくて「お金を掛けたい」と思わせないと

 

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僕たち日本人は、どうしても公共やそれに属する人たちを「外の人」や「敵」と認識する。本当はそんなわけもなく、まぁ味方でも無い。彼らは限りなく「0」でないと行けないと思っている。
 
たとえば、街中にある公園。この公園は公共のもので、言ってしまえばその土地の行政のものである。しかし、多くの利用者はその土地に住む人たちのものである。この土地は行政の人たちが好き勝手に使っていいものではない。
 
しかし、この公園から遊ぶ声がうるさくて「撤去しろ」という声があったとしよう。実際にその声が大きくなって取り壊されたとする。この時点で−1となる。マイナスにしたのは誰か。そう、地元の人間である。行政は市民の声に従っただけである。これでは、政府や地元の行政がお金を掛けようとしても掛けられない。だってマイナスにしかならないのだから。
 
これはミクロな考え方だけど、これがどんどん大きくなって政治につながっているのだろう。もちろん、こんなに簡単ではないだろうが、根っこは同じなのではないかと思う。

6 どうせ「無駄」なら休みを充実させるほうがマシ

 

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僕たちがただ「〜反対」や「〜しね」という意見を言い続ける事にどれだけのメリットがあるのか。先ほどの例の通りである。マイナスはマイナスでしかないのである。無理に全体を変えようとすれば、それだけ歪が発生する。反対である、自分が変わらないといけないのである。
 
あくまで自分が住む街を作るのは自分たちだし、その土地での「公共」に属し、よくしていくアイデアは自分たちで考えるしかないのである。
 
無駄だと思われるような事をするならば、デモでは無くて、まずは自分の余暇を楽しむ事のほうが先なのではないだろうか。それこそ2時間の映画にも耐えられない人は、自分が行動して何かを変えたことに「何も変化していない」と、自分で自分を引っ掻きそうな気がする。

それに、余暇があればアイデアを生み出し、愚痴る前に「こうすれば生活がよくなる」という行動につながるのではないだろうか。そこに対する無駄なら、大いにすべきだと思う。
 
たとえばだけど、田舎で行われる「トライアスロン」なんていい例な気がする。田舎にも関わらずお金を掛けるのは、そこにメリットがあるからである。とかく政治に対するただの野次が最も「無駄」である。
 
あるバーのマスターの言葉だけど「騒ぐだけで願いが叶うボーナスステージは赤ちゃんで終わり」と言っていた。
 
これは非常に真理なのではないかと、僕なんかは思ってしまうわけである。
 
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引っ越しとコメント

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ども、リュウ・ライタです。

前々から決まっていた引っ越しが、

やっと完了しました。

いや〜面倒だった笑

まだ体はだるくて、書く仕事に

集中し切れない私がいます(-。-;

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あまりに片付けも飽きて、

その途中にあるゲームにて

遊んでしまう始末です。

……まぁ、あるあるなんじゃないですかね笑

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あと、ブックマークにコメントを

ちょくちょくいただいたり、

したりするのですが。

コメントもらったとき、

どうやって返すんですかね(-。-;笑

他の人にコメントしたとき、ちゃんと

返してくれる人の見ていると

「俺も返して〜」となるのですが、

自分はどう探しても返せない……( ´・‿・`)

あんまはてなのヘルプ、ヘルプしてくれないしなぁ……。

こんなこと言ってゴメンナサイ笑

でも、7割は事実な気がしますけどね〜

近況報告と愚痴になりましたけど笑

それでは、また。

世の中は、同じもので溢れている~時間のない現代人と消費されるばかりのコンテンツ~

久々に知り合いの物書きに会う

 

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http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-2163.html

 

 

先日、僕は自分が住んでいる地域で小説活動しているX氏と久々にお会いすることができた。その人はもともと、シナリオ出身だったが、そのシナリオの「おもしろさ」が買われて小説家になったようである。

 

小説家に転向してから、X氏に会うことはなかった。X氏は、2年前に僕が脚本を手がけた舞台を見に来てくれてから全く会うことはなかったので、喫茶店にて2時間以上も話し込んでしまった。その間に話題になったのは、小説という媒体や情報発信の在り方の代わり用であった。

 

X氏はシナリオ出身だが、始めは「とにかく小説を書きたい」というところから始まりである。その思いの元、技術を学んでいく内にシナリオを書くことになり、そして現在に至ることになった。もともと小説を「書きたい」というところから出発している人である。

 

でも、その日会ったときX氏は「千本桜って、ホントはすごいんですね」と僕に語りかけた。僕も存在は知っていたけれど、そこまではまっているという訳ではなかった。それからX氏は「ハニーワークスとか、今カラオケはボカロばかりですよ」と語ってくれた。最近はカラオケなんて行っていなかったが、アニソンばかりというのは知っていた。けれど、ボカロがそこまで広がっていることには驚いた。でも同時に、邦楽が売れない理由も何となくわかってしまった。

 

さらにX氏は「今は本当に小説が売れない。でも、千本桜とか見ていて動画の力や、二次創作の力って、現代ではあらがえませんね」という話もしてくれた。僕としてもそれは思うところがあって、X氏の話を聞いていて洋画の「シェフ」を思い出した。


あの「スカヨン」がチョイ役で出ている「シェフ」

 

 

cinema.pia.co.jp

 

「シェフ」という映画は割と沢山あるが、これはアメリカのスカヨンが出てくるつい最近のものである。この映画は、腕のいいシェフがグルメブロガーを敵にすることで職を失い、キャンピングカーにてアメリカ横断しながら、旅先で現地の人に食事を振る舞う映画である。このシェフが一人で再起するのではなくて、もちろんキャンピングカーを提供してくれる人がいると共に、自分の子どもが商売のヒントになる。

 

シェフの子どもはインターネットズブズブ世代で、どうすれば人が興味を惹くのか潜在的に知っている部分が大きかった。大人では到底思いつかないような手法やネットサービスを駆使することで、父親の移動型レストランを宣伝する立場となる。

 

この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。

 

 僕もコンテンツを利用して新たなコンテンツを生み出す「二次創作」の勢いはとどまるところを知らないと思うし、今の中学生ぐらいになればテレビよりもインターネットを見ている時間のほうが長いと話を聞いていて思うこともある。それに、絵や動画を作ることも簡単になっていて、誰もが表現者になれる時代なんだと、僕は思ったりする。


今求められるのは「素材」提供者

 

現代ではものを簡単に作れるコンテンツが出ている。ホームページもそうだし、写真や動画だってアイデア次第で創意工夫が見えるものがある。でもこれは、僕としては一種のファッションにしか思えないところもあるわけだ。
だってそれは、コンテンツを生み出せる「素材」提供者による「自由にどうぞ」という、いわば1つのコンテンツから派生した亜流でしかないからである。言ってしまえば、今の世の中は「二次創作」のようなもので溢れている、と言い換えることもできるはずだ。

 

これは別に個人に関した話ではなくて、邦画やドラマでも同じことが言える気がするわけだ。邦画やドラマを付ければ、何かのマンガ原作であることが大半である。今では6割強のドラマが、原作ありきなのではないだろうか。最近は「邦画がつまらない」なんて言われるが。

 

togetter.com

 

作る人がこのように視聴者に媚びるのも哀しいが、やはり現代のアニメやマンガなどが強い環境下で、実写による「共感」部分が少ないコンテンツを打ち出しても意味はないように感じてしまう。
単純に作り手の技術不足もあるが、受け手とのミスマッチという部分も大きいのだと思う。それと同時に、実写では今の「二次創作」という大きな流れにコミットしていないのだと思う。

 

例えば、アニメだと1つおもしろいものが発生すれば、誰かがそこから二次創作を始める。誰かが生み出した「アニメ」や「マンガ」は、二次創作しやすいコンテンツがたくさんある。さらに言えば、まっさらに想像された「絵」や「物語」は、真の意味で現実化していない。空想の世界である。その世界を自由にできる技術があるならば、してみたいと思う人もいるだろう。

 

これに対して実写はひとつの現実に関与しているもので、そこには1つの世界が宿っている。マネしようとしても、自分がその世界に関与する余地がない。
実写でこぞってマネをしていたものとすれば、昔で言えば「タイタニック」や「冬のソナタ」は顕著なのではないだろうか。印象的なシーンの再現やロケ地を回ることで、映画やドラマを見た人がその世界を楽しめた。

 

でも、今のドラマや映画はマンガという虚像の世界の焼き回しでしかない。それでどうやって「二次創作」を楽しめるのだろうか。マンガを使った映像化は、すでにテレビ局や映画スタッフが「二次創作」したものである。それを消費者が、また消費しようとは思わないだろう。

 

だからこそ、いまストーリーを作る人たちはシビアにも、そして二次創作意欲を湧き立てるようなシナリオ素材を作るしかないわけである。


良く考えれば……

 

お店などで流れる有線放送は、驚くほどアニメ主題歌やアイドルばかりである。でもこれらも、僕からすれば二次創作したもののように聞こえる。どれもが同じものばかりで、違いを見つけるほうがむしろ難しいように感じる。

 

もちろん僕がちゃんと聞けていないだけで、それ自体にはその良さがあるのだと思う。最近では「あさがきた」に使われたアイドルグループの主題歌は、僕は個人的に好きだった。すべてが悪いわけではない。問題なのは、その売れたものをずっと焼き回すことである。

 

別に二次創作が簡単や悪いと言いたいわけではない。X氏と話したように「千本桜」が生まれた文化は、新しい文化として認めないといけない。でも、それは結局のところ「初音ミク」という存在があったから生まれた文化である。
過去には「アムラー」や「ポッタリアン」などがいた訳で、これも一種の二次創作ではないのかなと、僕は思ったりする。言ってしまえば、二次創作とは自分が好んだ文化に対する一種の愛情表現なのかもしれない。そのレベルや発信の質が変わっているだけで、実は今も昔も同じことを繰り返しているのかもしれないと、僕は思ったりしないでもない。 


もっと言えば、僕たちが行っている創作というものも、元を正せば日本古来で生まれた源氏物語をはじめ、物語の始祖たちから見れば「二次」となってくる。どこから二次創作と見るのかという議論もあるだろうと思うが、平安から考えると小説なんてものは、何度も焼き回しを行ったすでに「オワコン」なコンテンツなのかもしれない。

 

・さいごに


文化には「生活」がにじみ出ているものだと、僕は思ったりする。そう考えると、生活に馴染んでいるインターネットという環境から「千本桜」が生まれるのは必然だったのかもしれない。

 

では、現代に立ち返ったとき、この「初音ミク」を始めとするさまざま派生した文化を、僕たちはいつまで消費すればいいのだろうか。現行の邦画・ドラマ事情に当てはめれば、「千本桜」からさらにムーブメントを起こすような文化は、生まれないと僕は思っている。「千本桜」はボカロからすでに創作されたもので、一種のムーブメントを生み出している。

 

ここからさらにムーブメントが起きるだろうか。これが問題なわけである。同じものをすき好むのはいい。でもそれをずっと消費続けることは、実は今の音楽業界の姿勢と同じこととなりかねないと思っていたりする。

 

僕もただ小説を書くのではなくて、この能力を「素材」として見てもらえるようなコンテンツ発信をしなければ、生きていけないと心底思っているわけである。

 

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祝‼ 読者登録40~50名さまブログ紹介記事

 

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ども、リュウ・ライタです。

 

ダメですね、いちど途切れるとなかなか復活できない。

 

プロへの移行を考えていても仕方ないので、

 

以前から続けていた読者登録者さまの

 

紹介にて復帰したいと思います。

 

今回は読者登録者40~50名さまに該当します。

 

それでは、どうぞ!

 

www.g-zas.info

 

今回の1人目は「おーまいがっ!」さまです。脱サラして経営者をされている方のブログになっています。ご自身のブログでも語られている喜怒哀楽の感情に沿って書かれるブログは、読んでいてスカッとするものがあります。

 

choipapa.hateblo.jp

 

2人目にご紹介するのは「choipapaのブログ」さまです。自営業でシステムデベロッパーというお仕事をされているとのことで、「自営」という部分に勝手ながら親近感を覚えているブログ様の1つです。これから記事数が増えることを期待しております。

 

yoneyasu.hatenablog.com

 

3人目にご紹介するのは「今日からできる節約・節約術 日記」様です。タイトルにあるように「節約」をテーマにした記事が多く、携帯電話の通信料やSIMに関することをしっかり解説しています。「携帯で困ったら!」というときにおすすめです。

 

katamekoime.hateblo.jp

 

4人目にご紹介するのは「固め濃い目」さまです。ご自身で言われているようい「日々」のことに焦点を当てた記事が多く、生活感が見えるブログ様です。今では熊本で起きた地震に関する記事も多く、思うところがある人は必読です。

 

mayou-hito.hatenablog.com

 

5人目にご紹介するのは「迷い日記」さまです。SEをされているとのことで、私の取引先の1人ではないかと個人的にビクビクしております。「迷い日記」さまも個人の趣味などを書くことが多く、ガンダムネタなどで仲良くしたいお一人です。

 

yukom222.hatenablog.com

 

 6人目にご紹介するのは「フリーランス主婦の2拠点ライフ」さまです。同じ職種の方と、このはてなブログにて始めてお会いした方かもしれません。個人的にお世話になっているブログ様で、フリーランスや主婦からの視点が見れるブログになっています。

 

pinchetakk.hatenablog.com

 

7つ目にご紹介するのは「PincheTakk」さまです。世界旅行をテーマにしたブログになっており、ブログ執筆者さまご自身が体験したことを記事として見ることができます。タイやベトナムなどアジア圏の記事が今アツイです!

 

inyoshoten.hatenablog.com

 

8人目にご紹介するのは「引用書店」さまです。タイトルの通り本を「引用」するという形でブログを執筆されている方です。その本の数は凄まじく、またバリエーションも豊富。あなたの「読みたい」が見つかるブログと言えるでしょう。

 

harenokunikara.hatenablog.com

 

9人目にご紹介するのは「晴れの国岡山から旅まちめぐり」さまです。三重から岡山に移住してからの日々を書いていることが多く、倉敷や瀬戸内芸術祭を訪れた記録が残っています。旅先の候補として考えるとき、見てみるのはいかがでしょうか。

 

summersunday.hatenablog.com

 

今回ラストを飾るのは「summersunday’s blog」さまです。映画や小説を始め、転職や婚活など執筆者さまの興味が惹かれるまま記事を書いております。その多岐にわたるテーマの中でも「飲み会の一発芸を考える」記事は、類を見ないかと思います。

 

はい、以上が今回の10名さまでした。

 

ほんとうに、更新が気まぐれすぎて申し訳ないのですが……。

 

ですが、登録いただく限りは始めたことなので。

 

紹介するまでは止めることはありませんので。

 

暖かい目で見ていただければと思います。

 

それでは、また。

 

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一本の糸

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衣服点で働くサトコは、誰ともわからない衣服を修繕する仕事をしていた。

 
ある日、一本のジーンズがやってきた。
 
直そうとしたが、青いジーンズに合う糸が無くて赤色を使うことになった。
 
ジーンズをサトコが直している間、持ち主のトオルは1人で公園を散歩していた。
 
トオルは普段美容師として働いており、その店にはよくミサが来ていた。
 
ミサはスナックで働いていて、公私ともに彼のお世話になっていた。
 
ミサがお店で働いているとき、コウジはかならず彼女を指名した。
 
コウジは妻とも別れ、寂しさからミサを指名することが多かった。
 
コウジは普段公園でクレープを焼いていて、その味は評判だった。
 
ミサはクレープの話をコウジから聞いていたので、友だちのサトコと一緒にちょくちょく通っていた。
 
サトコもクレープにはまり、休みの日に1人で買いに行くぐらいはまっていた。
 
ある日、サトコが公園へクレープを買いに来たときだった。
 
「……あっ」
 
サトコがクレープを買っていると、ジーンズを履いた男が近づいてくるのを見つけた。
 
そのジーンズには見覚えがあった。
 
あの日、合う色が無くて赤い色で縫ったジーンズ。
 
「えっと、僕の顔に何かついてます?」
 
サトコはおかしくて、つい笑ってしまう。
 
トオルはわからなかった。
 
わからなかったけれど、悪い気はしなかった。
 
「一緒に、いいですか?」
 
サトコはにっこりと、クレープを渡しながら答えた。
 
 
 
 

 

最近の若い人は「SEO対策」してある記事が嫌いらしい~ネット情報と広告の在り方~

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ども、不定期に更新しているリュウ・ライタです。不定期になっているのは、プライベートの兼ね合いもありますが、近々はてなプロへの変更も予定しているためです。
 
  • このブログ恒例となっている読者登録者様紹介ページも、せっかくならはてなプロにしてからがいいだろうなぁ。

 

  • 記事を大量に書くならはてなプロがいいだろうなぁ。
 
と、考えていると記事更新も少しあぐねいてしまう結果になっている次第です。
読者登録者様に関しては、3月中に1度は掲載するかもです。
 
でも、更新を控えてよかったこともある。
 
この記事にもあるように、私としてはネタも集まったと思うし、何よりネットデトックスができた気がする。ブログ外のことに注力して、広告のあり方やブログのスタンスについて一考できた気がする。
 
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戦々恐々の「グーグルは使わない」宣言

 
この記事には、なんとも現代のマーケット形式で稼いでいる人には恐ろしいことが書いているかと思う。SEO対策してある記事はリアルではない、とのことである。
 
「一昔前ならGoogleで検索して化粧品のランキングを見ていたが、いまは見ません。結果にウソが多いのも若い子は知っている。自分が使っている化粧品が良くなくても、(ネットの)評価がいいと『ウソだな』と思う。Instagramは個人がやっているからウソがない」——もちろんInstagramにだって広告は入っているわけだけれど、SEOの件も含めて、すごく核心をついた話に聞こえる。

http://jp.techcrunch.com/2016/03/03/istagram-genking/
 
引用にもあるように、この記事に書いてあることはわかる。僕も某通販サイトのレビューは信用しないし、ランキングも気にしない。基本は自分で使った感覚と見た印象を大事にする。それに、レビューやランキングに嘘があるのも職業柄知っている。
 
僕はそこまでインスタグラムを使っていない。でも、このインスタグラムの影響は多大で、主に中高生〜大学生の間でよく使われているのは、記事内にもある通り。知り合いのアフィリエイターの人も、広告をしっかり出しているようだが、果たしてうまく行っているのかどうかは定かではない。
 
僕としては、インスタグラムにはインスタグラムのやり方があるだけで、広告というのは恣意があって当然である。それを今までのやり方を当て込もうとするから歪になる。確かに、ネットのバナーは邪魔なだけで有用なものを見たイメージはない。
 
 
  • 「バナー広告がわずらわしい」「よい面だけを強調している広告」「同じ広告が何度も出てくる」が不満のトップ3、「スマートフォン上の広告は邪魔なものが多い」も8割
  • 「商品を売り込むだけの広告より内容が面白い・楽しい広告」が望まれる

    http://www.opt.ne.jp/news/pr/detail/id=2578

 

こちらの記事にもあるのだが、ネットに求められるのは速効性であったり、使い勝手のほうが求められている。今までのやり方のまま、インスタグラムで広告を貼っても若者に「ダサい」と判断するされるのは、このような時代の潮流が要因になっている。

 

 

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でも、結局は恣意的なものだよ広告って


ネットだろうとテレビだろうと、広告とは「自社や個人が作ったものを宣伝するもの」である。どんな形だろうと広告は「恣意的」なのである。始めのほうに取りあげた「グーグルは使わない」と宣伝している方も、ただインスタグラムにあった広告方法を見つけて儲けているだけである。「広告」という活動自体を否定しているわけではない。
 
 望ましいインターネット広告について、同感する(「そう思う」+「どちらかといえばそう思う」)人の比率をみると、「商品を売り込むだけの広告より内容が面白い・楽しい広告の方が良い」(74%)が4人に3人の割合で最も多い。  このほか、「広告は商品情報だけを詳しく示せばよい」(64%)、「少しでも安い商品を教えてくれる広告が良い」(64%)、「商品のことばかりでなく、流行や社会のことについて教えてくれる広告が良い」(63%)なども同感する人が多い。

http://www.opt.ne.jp/news/pr/detail/id=2578

 
 ネットの広告にきちんとした情報を求める声も多いし、それ以上に「広告がおもしろい」という声が大きい。これに関しては、インスタグラムがわからない人でもユーチューバーを想像すればわかりやすい気がする。
 
ユーチューバーの方々も、今まで広告の第一線で活動してきた人には度し難い存在かもしれま。しかし、今でも何十~百万回と再生されているユーチューバーもいる。下手な紙面広告よりも圧倒的に見られる。
ユーチューバーの人たちも、広告マンと同じく「広告費」なるものをもらって活動をしている。いわば会社の「商品」をいかに若い人や視聴者に売り込むのか必死に考えているのだ。この事実があっても若い人が「リアル」というのであれば、そこに対しては「NO」と強く突き返したい。それは、インスタグラムでも同じである。
 
 

広告という方法自体はこれからもなくならないでしょうし、広告媒体として重要な位置を占めてきたテレビやラジオ、、新聞、雑誌も引き続き形や役割を変えながら存在していくのではないかと考えています。

ただ、ここで重要な視点は、少なくとも、メディアの変化とテクノロジーの進化は、、確実に皆さんの行動を変えてているということです。スマートフォンソーシャルメディア、さらに、進化を続けているインターネット経由の広告テクノロジーにより、静的で一方向的なメディアであるテレビやラジオ、新聞、雑誌等に対する視聴者や読者の態度は確実に変わりつつあります。

https://medium.com/@takashihirai/-74b231941bca#.i2po9yxdl

 
 広告は無くならない。でも、形は変わっていく。今までの社会が会社単位の効率ばかり求めていたものから、どんどん個人化していくのは時代の流れだと思っている。先ほど挙げた「広告が変わってきている~」にもあるように、受け手の態度は大きく変化しているし、社会だって変わってきている。
 
今の若者にインスタグラムやユーチューバーの人たちが「リアル」に見えるのは、今生きている人たちにとって「ネット」という存在が大きく変わっているからだ。ネットで出会った人は、自分から簡単にコメントやメッセージを送れる。うまく行けば会うことだってできる。ネットで出会った人は、隣に住んでいるおじさんよりも「隣人」となっている。そんな時代なのである。
自分から「会いたい」や「しゃべりたい」人を選択することが可能となり、自分にとって魅力ある人が宣伝しているものなら買ってみてもいい。これが今の若者の「リアル」なんだと思う。
 
でも、この時点でネットに住む住人に「リアル」を感じてる人もはまっている訳である。「コメントしたい」や「会いたい」と思った時点で、ユーチューブにしろインスタグラムにしろ、そこにいるのはフリーランスな広告マンだ。ただ、今の若者にとっては「誰か作ったのかわからないもの」よりは「隣人が使ったことのあるもの」のほうが受け入れやすいのだろう。
しかし、雑誌だろうとなんだろうと「おもしろい」と思わせたのならば、人間はそこに対してお金をペイするものである。だから僕は、「おもしろい」や「有益」だと思えたものにはお金をペイすべきだと思うし、ただ「無料」なコンテンツを作るのではなくて「有料」なコンテンツを作ったほうがいいと思ったりはする。 


 今までの「マス」社会とこれからの「パーソナル」社会

 

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今までの広告はマス(全体的)なものを流していた。それは、日本社会が「大学入ってサラリーマンとなるホワイトカラーを増やす」ということで成り立つ社会だったから、そこに対して広告を打てば大半の人に意味のある広告と成っていた。いい意味で、広告と消費者が噛みあって循環している時代だったのが、日本の高度経済成長期からバブルが弾ける寸前の日本だったんだと思う。
 
しかし、今は個々人の生活体系がまったく違う人たちが多く、日本や会社がモデルとしている人たちに対して効果的に広告を打てなくなっている。いわゆる「サラリーマン」の全体数が減っていると共に力を失いつつある。だから、そのモデルに大量の広告を打つことに意味が出てこなくなっている。日本から徐々に「マス」が消えつつあるのだ。
もちろん、広告なので「マス」以外にターゲットを絞るのだが、どうしてもまだ「仮想ターゲット」として「マス」ばかり狙う傾向が抜けていない気がする。現代においてメディアに能動的にアクセスできるのだから、消えつつあるマスを狙うことに、僕としてはあまり意味を見出せない。
 
「マス」が自然と消えることで、パーソナルな時代に移行しつつある。それはスマホしかり、諸処のサービスを考えてみればわかっていただけるとかと思う。その結果、広告もユーチューブやインスタグラムの「個人」に対して働き掛けるほうが効率的なものになってきているのである。昔のように「今話題の~」とか「○○も使っている~」のような文言は、すでに効果を示さない。もちろん、恣意的過ぎる「つまらない」ものも受け入れられない。
 
このような時代に対して「個人主義が行き過ぎている」という意見がある。その通りだ。スマホばかり見て子どもをほったらかしにしている人を見ると、僕でさえ顔をしかめてしまう。
だがしかし、僕は今までのマス的な社会よりも、開かれたパーソナルな社会のほうを尊重したい。会社という組織があることで仕事の「効率化」や「安定した仕事」を運営できることにかんしては理解できる。しかし、それでも僕はパーソナルな時代に賭けてみたい。
 
個人的に「ライター」なんて仕事をしていることも「パーソナル」に傾倒する理由であるが、それ以上に「効率化」の結果として高齢化や少子化になっている現代の姿を見てしまうと、どうしてそのような社会を肯定できるのだろうか。
さらに言えば「とりあえず大学入って就職」という図式を生み出した挙句、何者にもなれない若者を生み出して「最近の若いやつは」とかいう人たちを肯定することだって、僕にはできないわけだ。
 
それに、僕個人としてもこのブログを使って動画・写真・文章を駆使して生の情報は届けやすい環境を作れる。少なくとも、ただ「これを流せば大丈夫」なんて胡坐を掻いている広告企業よりは社会貢献できるのではないだろうかと、ひそかなる野心ぐらいは抱いている。
たしかに広告主からすれば「ちゃんと宣伝して」となるだろうけれど、その前に有益なコンテンツであることや読んでいて「おもしろかった」を考えない限りは、ネット社会における広告は生き抜けないと考えているわけである。
 
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