ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「2時間の映画に耐えられない」のが現代人の嗜好

1 映画館で2時間座ってられない

 

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僕が先日会った人は「映画が苦手」と言っていた。映画好きの僕としては聞き捨てならず「なんで?」と聞き返すと、「2時間もじっと座ってるなんて耐えられない」とのことだった。
 
なかなかの理由にあんぐりとしてしまったのだけれど、昨今の映画不況を考えればいいわからなくもない。ただ、その人の話を聞いていくと、映画が「つまらない」というよりも、そもそも「映画を観る価値がわからない」という感じだった。
 

2 映画をなぜ観るのか

 

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映画を観る理由はさまざまである。自分では体験できない経験や人生を経験するためや、趣味として見る人もいる。あるいは、シナリオや映像を仕事にしている人が勉強として見たりする。
 
他の理由としては、他者との時間共有のために映画を手段にすることもあるだろう。簡単に言うとデートである。でも、最近はデートに映画を選ぶ人も少ない気はするものだ。
 
紀伊国屋」のとあるコーナーに「昔の人と今の人ではこんなにデートの価値観が違う」というものがあった。「昔」とは主に高度経済成長からバブル期を指しており、そこには高級志向が立ち並んでいた。ブティックやレストランなど、そのような場所にてデートをするのが一般的だった。
 
しかし、今ではモールやチェーン店、カフェでのお手軽な場所にてデートするのが主流となっている。昔に比べればカジュアル思考が強いと共に、僕は実益を兼ねているように感じた。
 

3 無駄が嫌いな現代人

 

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何かと「お金」と「時間」にうるさい昨今であるが、それは私生活にも浸透しつつあるのだと僕は思う。これが「映画離れ」の一端にもなっているのだと、僕は多少なりとも思うわけだ。
 
最近の若い人は2時間ドラマでも、最初から最後まで理解するのが難しいらしい。よく前のチャプターやシーンに戻りつつ内容を把握するするとか。単純に「理解する力の低下」という言葉で片付けるのはナンセンスだろう(事実、歴史に対する認識の低下を考えれば、もちろん0ではない)
 
しかし、現代に溢れるコンテンツを考えれば、2時間の物語を理解できないのも納得してしまう。
 
 
この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。
 
前の記事でも取り上げたが、今では1秒の動画がある世界。そして、短いコンテンツをたくさん楽しむのが現代風である。小説でいえば短編だろうか。
 
短いコンテンツが売れるのは、「二次創作」の流行とも結び付く気がする。1つのコンテンツから派生する別のコンテンツは、根元では共通部分がある。長い1つのものを楽しむのではなくて、自分が「おもしろい‼︎」と感じたものを手を替え品を替えて楽しむ。これならば、自分が一度気に入った「おもしろい‼︎」だからハズレを引く心配もない。忙しい現代人なりの楽しみ方なのかもしれない(これに味を占めて続編の嵐となり、コンテンツの質を低下させている側面もある)
 
この流行を考えると、やはり2時間もの時間で、さらに新しいもので現代人に「おもしろい‼︎」と思わせるのは、至難の技にも思う。
 

4 余裕のない国、日本

 

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僕はギリギリ昭和の人間だし、映画が好きだから言う。無駄が大好きである。
今の人みたいに、すべて時間とお金を引っ付けて考えることはできない。そんなギスギスした生活はまっぴら御免である。
 
しかし、現在の日本は貧乏である。これは今後僕たちが自覚しなければいけない事で、とくに「日本は戦後から立ち直った」と錯覚している人たちに突きつけなければいけない現実である。
 
 
この記事からもわかる通り、世界では物価は上がっている。それに対して日本では、物価は下がったままで円を大事にしている。
事実、外国人が日本を旅する事がおおくなっている。これは、自国で稼いだお金で日本に来るのは容易になっている表れだろう。僕が住む地域でも、心なしか外国人が増えたような気がする。
 
それだけで国の豊かさや価値を表すことはないが、現実問題として日本での住み辛さって上がってきている気がする。老人の今後だけでなく、将来を担う子どもに無頓着な運営。だめなことが分かっているのに、なかなか変えられない現実。
 
このむず痒さは異常のような気がするのだが、結局はデモや書き込みだけで終わってしまう残念さ。本質から変えるには、やはり政治や中央政権から変わるしかない。だけどその前に、自分たちが変わる必要がある。「攻殻機動隊」という有名なアニメの主人公も言っていた。
 
世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。
 
変わりたい気持ちは大いにあるのだと思う。でも、やるべきこともせずに「理想郷を作ろう」と言われても、その言葉は空虚である。ただ「世の中をよくしたい」や「保育園落ちた死ね」には恣意的なものを感じるし、本当はどうしたいのか見えない。だから、あまり支持する気持ちになれないんだと思う。
 

5 政治家が嫌がる事じゃなくて「お金を掛けたい」と思わせないと

 

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僕たち日本人は、どうしても公共やそれに属する人たちを「外の人」や「敵」と認識する。本当はそんなわけもなく、まぁ味方でも無い。彼らは限りなく「0」でないと行けないと思っている。
 
たとえば、街中にある公園。この公園は公共のもので、言ってしまえばその土地の行政のものである。しかし、多くの利用者はその土地に住む人たちのものである。この土地は行政の人たちが好き勝手に使っていいものではない。
 
しかし、この公園から遊ぶ声がうるさくて「撤去しろ」という声があったとしよう。実際にその声が大きくなって取り壊されたとする。この時点で−1となる。マイナスにしたのは誰か。そう、地元の人間である。行政は市民の声に従っただけである。これでは、政府や地元の行政がお金を掛けようとしても掛けられない。だってマイナスにしかならないのだから。
 
これはミクロな考え方だけど、これがどんどん大きくなって政治につながっているのだろう。もちろん、こんなに簡単ではないだろうが、根っこは同じなのではないかと思う。

6 どうせ「無駄」なら休みを充実させるほうがマシ

 

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僕たちがただ「〜反対」や「〜しね」という意見を言い続ける事にどれだけのメリットがあるのか。先ほどの例の通りである。マイナスはマイナスでしかないのである。無理に全体を変えようとすれば、それだけ歪が発生する。反対である、自分が変わらないといけないのである。
 
あくまで自分が住む街を作るのは自分たちだし、その土地での「公共」に属し、よくしていくアイデアは自分たちで考えるしかないのである。
 
無駄だと思われるような事をするならば、デモでは無くて、まずは自分の余暇を楽しむ事のほうが先なのではないだろうか。それこそ2時間の映画にも耐えられない人は、自分が行動して何かを変えたことに「何も変化していない」と、自分で自分を引っ掻きそうな気がする。

それに、余暇があればアイデアを生み出し、愚痴る前に「こうすれば生活がよくなる」という行動につながるのではないだろうか。そこに対する無駄なら、大いにすべきだと思う。
 
たとえばだけど、田舎で行われる「トライアスロン」なんていい例な気がする。田舎にも関わらずお金を掛けるのは、そこにメリットがあるからである。とかく政治に対するただの野次が最も「無駄」である。
 
あるバーのマスターの言葉だけど「騒ぐだけで願いが叶うボーナスステージは赤ちゃんで終わり」と言っていた。
 
これは非常に真理なのではないかと、僕なんかは思ってしまうわけである。
 
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