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ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

世の中は、同じもので溢れている~時間のない現代人と消費されるばかりのコンテンツ~

久々に知り合いの物書きに会う

 

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http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-2163.html

 

 

先日、僕は自分が住んでいる地域で小説活動しているX氏と久々にお会いすることができた。その人はもともと、シナリオ出身だったが、そのシナリオの「おもしろさ」が買われて小説家になったようである。

 

小説家に転向してから、X氏に会うことはなかった。X氏は、2年前に僕が脚本を手がけた舞台を見に来てくれてから全く会うことはなかったので、喫茶店にて2時間以上も話し込んでしまった。その間に話題になったのは、小説という媒体や情報発信の在り方の代わり用であった。

 

X氏はシナリオ出身だが、始めは「とにかく小説を書きたい」というところから始まりである。その思いの元、技術を学んでいく内にシナリオを書くことになり、そして現在に至ることになった。もともと小説を「書きたい」というところから出発している人である。

 

でも、その日会ったときX氏は「千本桜って、ホントはすごいんですね」と僕に語りかけた。僕も存在は知っていたけれど、そこまではまっているという訳ではなかった。それからX氏は「ハニーワークスとか、今カラオケはボカロばかりですよ」と語ってくれた。最近はカラオケなんて行っていなかったが、アニソンばかりというのは知っていた。けれど、ボカロがそこまで広がっていることには驚いた。でも同時に、邦楽が売れない理由も何となくわかってしまった。

 

さらにX氏は「今は本当に小説が売れない。でも、千本桜とか見ていて動画の力や、二次創作の力って、現代ではあらがえませんね」という話もしてくれた。僕としてもそれは思うところがあって、X氏の話を聞いていて洋画の「シェフ」を思い出した。


あの「スカヨン」がチョイ役で出ている「シェフ」

 

 

cinema.pia.co.jp

 

「シェフ」という映画は割と沢山あるが、これはアメリカのスカヨンが出てくるつい最近のものである。この映画は、腕のいいシェフがグルメブロガーを敵にすることで職を失い、キャンピングカーにてアメリカ横断しながら、旅先で現地の人に食事を振る舞う映画である。このシェフが一人で再起するのではなくて、もちろんキャンピングカーを提供してくれる人がいると共に、自分の子どもが商売のヒントになる。

 

シェフの子どもはインターネットズブズブ世代で、どうすれば人が興味を惹くのか潜在的に知っている部分が大きかった。大人では到底思いつかないような手法やネットサービスを駆使することで、父親の移動型レストランを宣伝する立場となる。

 

この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。

 

 僕もコンテンツを利用して新たなコンテンツを生み出す「二次創作」の勢いはとどまるところを知らないと思うし、今の中学生ぐらいになればテレビよりもインターネットを見ている時間のほうが長いと話を聞いていて思うこともある。それに、絵や動画を作ることも簡単になっていて、誰もが表現者になれる時代なんだと、僕は思ったりする。


今求められるのは「素材」提供者

 

現代ではものを簡単に作れるコンテンツが出ている。ホームページもそうだし、写真や動画だってアイデア次第で創意工夫が見えるものがある。でもこれは、僕としては一種のファッションにしか思えないところもあるわけだ。
だってそれは、コンテンツを生み出せる「素材」提供者による「自由にどうぞ」という、いわば1つのコンテンツから派生した亜流でしかないからである。言ってしまえば、今の世の中は「二次創作」のようなもので溢れている、と言い換えることもできるはずだ。

 

これは別に個人に関した話ではなくて、邦画やドラマでも同じことが言える気がするわけだ。邦画やドラマを付ければ、何かのマンガ原作であることが大半である。今では6割強のドラマが、原作ありきなのではないだろうか。最近は「邦画がつまらない」なんて言われるが。

 

togetter.com

 

作る人がこのように視聴者に媚びるのも哀しいが、やはり現代のアニメやマンガなどが強い環境下で、実写による「共感」部分が少ないコンテンツを打ち出しても意味はないように感じてしまう。
単純に作り手の技術不足もあるが、受け手とのミスマッチという部分も大きいのだと思う。それと同時に、実写では今の「二次創作」という大きな流れにコミットしていないのだと思う。

 

例えば、アニメだと1つおもしろいものが発生すれば、誰かがそこから二次創作を始める。誰かが生み出した「アニメ」や「マンガ」は、二次創作しやすいコンテンツがたくさんある。さらに言えば、まっさらに想像された「絵」や「物語」は、真の意味で現実化していない。空想の世界である。その世界を自由にできる技術があるならば、してみたいと思う人もいるだろう。

 

これに対して実写はひとつの現実に関与しているもので、そこには1つの世界が宿っている。マネしようとしても、自分がその世界に関与する余地がない。
実写でこぞってマネをしていたものとすれば、昔で言えば「タイタニック」や「冬のソナタ」は顕著なのではないだろうか。印象的なシーンの再現やロケ地を回ることで、映画やドラマを見た人がその世界を楽しめた。

 

でも、今のドラマや映画はマンガという虚像の世界の焼き回しでしかない。それでどうやって「二次創作」を楽しめるのだろうか。マンガを使った映像化は、すでにテレビ局や映画スタッフが「二次創作」したものである。それを消費者が、また消費しようとは思わないだろう。

 

だからこそ、いまストーリーを作る人たちはシビアにも、そして二次創作意欲を湧き立てるようなシナリオ素材を作るしかないわけである。


良く考えれば……

 

お店などで流れる有線放送は、驚くほどアニメ主題歌やアイドルばかりである。でもこれらも、僕からすれば二次創作したもののように聞こえる。どれもが同じものばかりで、違いを見つけるほうがむしろ難しいように感じる。

 

もちろん僕がちゃんと聞けていないだけで、それ自体にはその良さがあるのだと思う。最近では「あさがきた」に使われたアイドルグループの主題歌は、僕は個人的に好きだった。すべてが悪いわけではない。問題なのは、その売れたものをずっと焼き回すことである。

 

別に二次創作が簡単や悪いと言いたいわけではない。X氏と話したように「千本桜」が生まれた文化は、新しい文化として認めないといけない。でも、それは結局のところ「初音ミク」という存在があったから生まれた文化である。
過去には「アムラー」や「ポッタリアン」などがいた訳で、これも一種の二次創作ではないのかなと、僕は思ったりする。言ってしまえば、二次創作とは自分が好んだ文化に対する一種の愛情表現なのかもしれない。そのレベルや発信の質が変わっているだけで、実は今も昔も同じことを繰り返しているのかもしれないと、僕は思ったりしないでもない。 


もっと言えば、僕たちが行っている創作というものも、元を正せば日本古来で生まれた源氏物語をはじめ、物語の始祖たちから見れば「二次」となってくる。どこから二次創作と見るのかという議論もあるだろうと思うが、平安から考えると小説なんてものは、何度も焼き回しを行ったすでに「オワコン」なコンテンツなのかもしれない。

 

・さいごに


文化には「生活」がにじみ出ているものだと、僕は思ったりする。そう考えると、生活に馴染んでいるインターネットという環境から「千本桜」が生まれるのは必然だったのかもしれない。

 

では、現代に立ち返ったとき、この「初音ミク」を始めとするさまざま派生した文化を、僕たちはいつまで消費すればいいのだろうか。現行の邦画・ドラマ事情に当てはめれば、「千本桜」からさらにムーブメントを起こすような文化は、生まれないと僕は思っている。「千本桜」はボカロからすでに創作されたもので、一種のムーブメントを生み出している。

 

ここからさらにムーブメントが起きるだろうか。これが問題なわけである。同じものをすき好むのはいい。でもそれをずっと消費続けることは、実は今の音楽業界の姿勢と同じこととなりかねないと思っていたりする。

 

僕もただ小説を書くのではなくて、この能力を「素材」として見てもらえるようなコンテンツ発信をしなければ、生きていけないと心底思っているわけである。

 

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