ふわふわしてます笑~スマップとベッキーとゴシップと〜
ども、リュウ・ライタです。タイトルの通りです、
このブログの運営、ふわふわしています笑
いや~ほんと何に関して書くべきとか、本当は考えるべきだと思うんですよねぇ。SEO的なことを考えても、読者様のこと考えても。
ですけど、書けば書くほど書きたい内容が乖離し始めて、最後まで書いたとき「なんで書いているんだっけ?」という経験はないでしょうか?
別にブログじゃなくても、メールでも結構です。恋人や親、友達に対して何らかのメールを書いたとします。
でも、それ書いた or 送った後に「なんでこんなものを書いて送ったんだ?」と不思議な感覚に陥ることってないですか?
ぼくもいろいろ書きますが、その途中で「なんでこんなものを書いているんだろう」と自問自答する瞬間があります。
たぶんですけれど、いざ吐き出してみると大したことない内容だったりすんですよね。
記事に怒りをぶつける人たち
昨今では、スマップとかベッキーの騒動がすごいんですか?
僕はこんなニュースに対して「へぇー」と思うタイプで、その裏で何が起こっているのか気になるタイプです。そうそう、この騒動に対して異論を唱えた伊勢谷さんタイプと同じです。
実際にツイッターで言及しておられますね。
あほくさ。 スマップの事なんかより、未来において大事な選択肢が国会で選択されてる。 人が求めるからだというエクスキューズで、大事な事から目をそらし、どうでもいい事に、注視させるメディアに、どんなリテラシーがあるんだろうか。。。
— 伊勢谷友介 《座右の銘☞挫折禁止》 (@Iseya_Yusuke) 2016, 1月 20
何かに対して怒りを持って、自分の感情を露呈する。うん、何か文章を書く上で間違った感情でもなんでもなくて、正当だと思います。
でも、ニュースやネット記事というのは、感情論によって振り回されているのも事実です。
それこそ、「なんでこんなこと書いたんだっけ」というような記事に。
たとえばなんですけれど、スマップ騒動と近い時期に大学生を乗せたバス事故が起こりました。そのバス事故のとき、妙にひとりの女性だけがニュースで取り出されていました。その被害者の方の名前は忘れましたけれど、映像に映えるきれいな女性でした。
僕としては、その報道がすごく奇妙でした。ほかの大学生にだって人生はあっただろうし、運転手に人だって事故を起こした背景があっただろうし……。
要は、バス事故の委細詳細ほうが重要だと思ったし、何よりバス会社への社会的メスをのぞんでいました。それなのに、取沙汰されるのは悲劇のヒロインのみ。
もちろん、亡くなった大学生に対する遺族の気持ちはわかります。死者に対する哀悼の意は持ち合わせています。しかし、ニュースとしての本質には異論を唱えざる得ませんでした。
バス事故で死んだ65のおじさん、遺族が全くいないらしいな 天涯孤独で65まで頑張っても年金で満足に暮らせず安月給で酷使され、結果事故で死んでも悲しむ人はいない 一方20ちょっとの大学生には葬儀に1000人以上参列 この事件に日本社会の格差と闇を感じる
— のんのんさん (@onorinori1) 2016, 1月 17
このツイートにあるように、バス会社の男性が何とも孤独な人生を送る現実にあることがピックアップされるべき。
なのに、ニュースや新聞が席巻するのは芸能ニュース。もしくは、悲劇のヒロインです。まるで中身のない映画やドラマに、むりやり人気俳優や女優を使って、どんどん味を薄くしている感じ。まるで何かを誤魔化すように。
そういう意味では、僕も伊勢谷さんと同じくベッキーやスマップのお話は「あほくさ」いです。もちろん、スマップの解散自体は大きなニュースだけれど、それに付随するマスコミの在り方が「あほくさ」いです。それは、ベッキーの件でも同じ。
そして、事故で亡くなった人達に罪はないけれど、悲劇のヒロインとして映そうとするメディア体勢は「あほくさ」いです。
まぁ、メディアだって慈善事業でニュース作っているわけではないですけれど。ちょっと首輪でつながれ過ぎてないってイメージは、大いにあります。何の首輪か、とは言いませんけれど。
人を動かすのは感情だけれど
人を動かすのは感情だと思います。愛とか快楽とか憎悪とか怒りとか。その感情を原料に文章化するとベーキングパウダーみたいに膨らみます。
けれど、すぐにプシュ―と潰れてしまいます。中身がないんです、本質がないんです。骨のない肉塊、みたいな。だから動けない、動かない、動こうと思えない。
本当に残る文章というのは、骨がしっかりしています。骨付き肉みたいにいつまでもしゃぶりたくなります。
まだまだテーマが決まらないブログで、非常にふわふわしています。けれど、骨ぐらいは見極めて書きたいものです。