ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「ファイテングポーズ」を取ることの意味~重馬敬さんとの対談とロッキーと狼と~

1 常にファイティングポーズを構えている人たち

 

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本格的にライターなんてやっている内に、すでに年末までのカウントダウンが始まる時期になってきた。1日1日がまるで流星のように消えていくのを、僕はそこからなんとか明日へつながる星くずを拾い集める。そんな砂を掻き続けるようでありながら、不思議と未来へのトンネルは見えてくるような日常を送っている。

 

その中で付き合っていく人たちも、徐々に変化していったように感じる。もちろん今までの人間関係が壊れるとかいう意味ではなくて、より同じ発想やベクトルの方向が同じ人との濃度が濃くなった、というような感覚である。

 

その要素の1つに「ファイティングポーズを取り続ける」というものがある。

 

2 常に全力で立ち向かう

 

周りの人はとにかく拳を下げない。今やプロとして活動し、過去には誰もが知っているようなゲームタイトルのシナリオを書いている人だって、今でも新人と同じように賞へ応募している。

 

僕はとある機会に「シナリオ工房月光」という、シナリオ制作会社の代表をされている方とラジオで対談させていただいた機会がある。

 

シナリオ工房月光 重馬敬さんインタビューラジオ

↓↓↓

honmaru-radio.com

 

この話の中でも、代表である重馬氏は「常に挑戦を続けること」を止めていない。

 

さらに、シナリオを見ていただく機会もあったのだが、そこでも僕のシナリオをきちんと評価してくれた。厳しいながらも、それはどれも的確で、別に悪く言うためではない。それはきちんと「研磨」するための道具となる言葉だった。

 

きちんと人の評価ができるのは、僕はその人が自分のフィールドで戦い続けているからだと思った。戦っている人は、常に勝つための手段を考え続ける。だから、僕に足りないものや今後の方向性などの提案もどんどん吐き出してくれた。出し惜しみなんてない、こんなしがないライターにも全力だった。まさにファイティングポーズを取っていた。

 

3 戦うことは誰かを蹴落とすことではない

 

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僕は「ロッキー」という映画の影響もあって、ボクシングが大好きである。あの映画の何が人を惹きつけるのかと言えば、もちろん1人の男が愛する女のために戦い続けるところである。だけど、僕にはそれ以外に「戦いの描き方」にあると思う。

 

ロッキーは負け、ライバルのアポロは勝つ。しかし、この戦いで2人は何も失っていない。お互いに自身のプライドをかけ、自分の守りたいものを守るために戦う。

 

普通ならば、勝負をすれば勝ち負けが出る。それは出る、勝負なのだから。しかし、それはシンプルなスポーツ的な結果でしかなくて、それぞれの人間が抱える本質的な問題ではないし、その勝敗に周りの人間が何を感じようが勝手なのである。今の僕のように。

 

しかし、そうしたシンプルで自分の尊厳や大事なものを掛けた戦いほど、人の心を打つのである。彼らは自分の手にしたいものに向かってシンプルに立ち向かい、何物にも染まろうとしない姿が雄々しく見える。

 

4 狼は勝負で命まで奪わない

 

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現代では様々な人がさまざまな情報をやり取りする。ネットではまるで人が人のやることをイチイチ監視しているようで、反対に誰かの注目を浴びたくてどうしようもないような人ばかりのように感じて辟易とすることがある。

 

その点、勝負はシンプルでいい。勝負に集中しているときは雑念を忘れることができる。本当の意味で無我の境地に立った気分になれる。誰かから注目されたくて始めた勝負も、次第に自分が最も集中できる時間になっていた人もいるんじゃないかと思ったりする。

 

僕はこうした、本当に集中できる勝負というのは、必ずしも命のやり取りである必要はないと思っている。中にはそう考えない人もいるかもしれないが、本当の勝負とは狼のようであるべきだと思ったりする。

 

狼はナワバリ内でトップを決めるとき、勝負をする。その勝負で負けた狼は、命を取られることはない。負けた狼は自分からナワバリを去り、別の場所で自分のコミュニティを形成するのである。

 

今では勝負に負けたものは人生のどん底に落ち、ネットでは誹謗中傷の的になる。しかし、本来命を掛けたもの同士ならば、その健闘を讃えて、お互いの世界を広げるべきなのではないかと、僕は思ったりする。今では強者がすべてで、まるでその人にこうべを垂れていればいいような事勿れ主義が蔓延しているようで、個人的には鼻に付く。

 

別に敗者の擁護や、弱者への救済措置を述べたいのではない。ただ、周りの人間が何も知らずに、勝負に負けた人間を叩く姿に耐えかねないのである。

 

5  ファイティングポーズを取り続けるのは、生きていることの証明

 

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戦い続ける人間はストイックで、時には讃えられることもあれば、時には孤独になってしまうものだと思っている。だけど、それでいいんじゃないだろうか。勝ち続けるのも疲れるだけ出し、勝ち続けることが目的になっている時点で、それは勝負の本来の目的を忘れていることと同義だと僕は思う。

 

僕の中でだけれど、戦わない人は負けることは無いだろう。しかし、勝つこともない。それは、ニュートラルでは無くて存在しないことと同義なのではないかと感じるし、自分で勝負しない人ほど他人の結果に口出しをする。

 

理由なんて簡単である、その方が楽だからである。

 

映画に「おとなのけんか」というものがある。これは子供の喧嘩に大人がししゃりでる姿を皮肉った、内容的にも映像的にも舞台チックな映画になっている。

 

この大人の姿を見ていて、僕たちは喧嘩や勝負の仕方を忘れてしまったのではないかと感じてしまう。あまりにも平等という言葉や、平和的という言葉に毒されてしまい、僕たちはその便利な言葉を教祖のように崇めているだけで、本来の意味なんて忘れているんだと思う。

 

平和や平等という言葉で大事なのは、その言葉自体ではない。その言葉を理解し、別の形で表現しようとする姿勢そのものであると、僕は思ったりする。

 

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