「正しい」とか「まちがい」とか〜シン・ゴジラをみて〜
*シン・ゴジラの内容に少し触れます。大きなネタバレはないかと思いますが、自己責任でお願いします。
1・世の中に答えなんてない。自分で探せ
なんてことはドラマや漫画などでよく耳にしそうだが、正しいと言えば正しい。こんなセリフを急にいったところで、その言葉の価値はそこまで意味を持たないのだろうし、ましてや居酒屋で偉そうにおっさんが若者に言っていれば、僕は胸のあたりがムカムカするだろう。
たしかに答えなんてない。社会に出れば正解とか不正解よりも、問題を解決する力が求められ、会社でもその力を求めるのだと思う。でも今は違うように感じる。みんな何かの答えを探し、「正しい」と「まちがい」を見分けるのに躍起になっているように見える。
2・「シン・ゴジラ」を見たのだが
あの映画は単純にすごい。現代日本を覆う閉塞感に、大きな「ゴジラ」という巨大怪獣ないし、破壊神が現れて人間に審判を下そうとする。日本を破壊するカタルシスと、その絶望から立ち上がろうとする、人間本来の強さみたいなものが詰まっている。
「シン・ゴジラ」の中に出てくる閉塞感のひとつに、政治的なものがある。過去に作られたアメリカ式の古い民主政治を粛々と信じ、未だにその方法に則って政治が続いている。だれがどう見ても絶望だ。でも僕は、その映画でもっと絶望を感じたシーンがあった。それは「デモ」だ。
「シン・ゴジラ」内には、ゴジラをなんとかしようとする政府関係者がでてくる。しかし、そのことを何も知らない日本人が、東京がゴジラにて危機的状態であるにもかかわらずでもがはじまる。
僕ならば、そんな危機的状況になれば目の前の人を救おうと思う。それにもかかわらず、人は政治を「まちがい」と判断して、自分たちを「正しい」と肯定する。こんな自己肯定しかできない状況を、絶望と言わず何というだろうか。
3・自己主張に捉われた現代人
今では1にも2にも自己主張が求められる。べつに自己主張が悪いとは言わない。でもそれが、自分の「欲」に基づき過ぎていて、僕はそうしたデモなどを見るたびに気分が悪くなる。
人間、そりゃ自己主張は必要である。自分に何ができて、何ができないか。僕がこうして文書を書いているのだって自己主張のひとつだし、その行為自体を否定するつもりはない。でも少なからず、こうして書く行為が「何かのプラスになる」ことは絶対に外せない。それが自己主張だと思っている。
例えばだけれど、ある男性が女性に対してアプローチしようとしている。その男性が女性に必死に「自己主張」したとしよう。アプローチではなく、「あなたが好きだ」という自己主張である。これで女性の心を掴めるかといえば、往々にしてノーだと思う。
先ほどの例で言えば、男性は女性に対して「好きだ」としか言っていない。それは男性の都合である。女性からすれば「知らない」という話で、急に自己主張してきた男なんて通りすがりのキャッチと変わらないわけである。
4・僕の場合は「自己主張」は、アプローチとも言い換えられる。
簡単に言えば「相手にどうすれば自然と気持ちが伝わるか」を考えることである。もっと言えば逆算かもしれない。
自分の気持ちを実現するためには、自分が叫んだだけでは何も変わらない。確かに、まずは声ありきだ。声を上げるのは大事だけれど、そのあとに「どうすれはいいか」に変換しないといけない。
あるバーのマスターの言葉だけど「騒ぐだけで願いが叶うボーナスステージは赤ちゃんで終わり」と言っていた。
これは非常に真理なのではないかと、僕なんかは思ってしまうわけである。
前にもこちらの記事で語ったけれど、人が叫んだだけでは何もない変わらない。そこに付随する行動や普段の生活が大事になってくる。べつに大きな行動をする必要はないと思う。何気ないことでいいから「幸せになりたい」や、「もっといい生活にしたい」という発想だと思う。
ここまで話すと「じゃあ行動できないと声を上げてはいけないのか」という話になるかもしれないが、別にそう言いたいわけではない。ここで大事になってくるのが「悲観的」という魔物に捉われているかどうかだと思う。
5・何も知らない人ほど「悲観的」になる
戦争体験を語る会のビデオ。エグいエピソードのある戦争実体験者はみなヘラヘラ笑いながら語る。なんも知らない若い司会者やパネラーはみな眉間にシワを寄せて低い悲壮なトーンで話す。
— 高木壮太 (@TakagiSota) 2016年8月5日
戦争の記憶が遠くなるほど、戦争はアンタッチャブルな聖域になる。昭和40年代なら戦争喜劇もあったし大木金太郎も原爆頭突きで人気だった。いまやれば各種団体がキチガイのように怒るだろう。この先は戦争に関するあらゆる言論が宗教的タブーになるにちがいない。
— 高木壮太 (@TakagiSota) 2016年8月5日
このツイッターは非常に分かりやすいものだと思うが、何も知らない人は悲観的に考える。
このような症状は、東日本や熊本の地震の時にも言えたことだと思うが、当事者にとってはしんどいも楽しいもないのである。とにかくその日を生き抜くことが必要だし、とにかく元気になりたい。それにもかかわらず、日本では「偽善狩り」というものが起こり、勝手に周りの人が「正しい」とか「まちがい」を決めていくのである。
はじめの「シン・ゴジラ」の話でも、政府の対応やゴジラのことを何も知らない人がデモを起こしていたのだと思う。おそらくあのデモは、東京で被害にあった人以外だろう。
別にデモしてもいいし、自己主張を止めろと言いたいわけではない。でも、自分や世の中にある事象について、単純に「正しい」とか「まちがい」とかに触れてしまうと、一生「悲観的」という渦から抜けられないと思う。
「悲観的」な渦に飲み込まれるぐらいならば、僕は打算的であっても生き抜きたいと思う。誰かにアプローチしてそれで幸せになってもらい、それで自分も幸せになれる。こんな「WinWin」は他にないではないかと、僕は思ったりする。
もちろん、それでは味気ないから人間は「物語」を求めるのである。ぼくのこの文章だって、ある種「私」や「誰か」の物語であり、こんな文章にも、誰かが何かを求めてくれるのかもしれない。
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