まさに僕らは「ジャンクション」に立っている
ども、リュウ・ライタです。
こちらでも少しずつですが、記事ペース上げていこうと思う。やっぱ書かないとね、としみじみ思ったりする笑
そんな私ですが、昨日は大学の旧友と会っていた。大学のゼミで知り合って、今でもメシや温泉に行ったりする。
彼は僕の仕事のことや、これからの話をいろいろ聞いてくれる。僕みたいな仕事は世間に触れているようで、ある種世間ズレしているところがあるから、こうして話せる人がいるのは幸せなことである。
昨日はメシを食べた後、「星乃岡温泉」という温泉に行った。露天風呂もあって、非常に快適なお湯だった。
その温泉では、彼自身のこれからの仕事や、もう30手前であることが話しの中心になった。
彼と話していて、自分が30手前になっていることを再確認したし、僕の周りでは生き方や働き方で悩んでいる人が多いなって、漠然と思った。
年末に実家へ帰ったときも、僕は地元の友人と会っていた。
その友人の1人は家を買って子どもも生まれて、その姿は幸せそのものだった。
1人は仕事をがんばりながら、自分の趣味を楽しんでいる。
そして1人は、これからの仕事をどうしようかと、一緒に温泉に行った友人と同じような悩みを抱えている。
同じ世代の僕たちは、それぞれ違う生き方している。それなのに、同じようなタイミングで「ジャンクション」を迎えている。
僕たちはもう子どもでもなければ学生でもなくて、これからの生き方を本気で考えないといけないんだなぁと、肌で実感した気分だった。
生きるってのは、そんな大げさにかんがえることではないけれど、簡単なことでもないと思う。ただ、友人たちと話していて思うのは、会社が人の一生を担保できるほどの力は持っていないのに、僕ら「ゆとり」と呼ばれる世代が何かしようとしても、「ゆとり」を作って「ゆとり」を揶揄する大人たちの「多数決」によって潰されてしまうのだ。
でも、「〜したい」という部分に輪郭を与えることは大事だと思うし、新しい発想に対する理解を変えていくのって、絶対に必要になってくるんじゃないかなって思う。
それは若者たちだけでなくて、多数決が好きな日本なら団塊の世代の意見を変えることだって必要だと思う。
今の日本では、大手のとあるメーカーでさえ存続の危機に立たされている。古いものをぜんぶ壊す必要はないけれど、もうどれだけ舐めても甘味は味わえないところまで来てるんじゃないだろうか。
少なくとも、僕はそう思っている。