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ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

『鉄血のオルフェンズ』を「好きだけど、おもしろくない」に共感できる人いますか? ~徹底して「鉄華団」を描いた結果を考察してみる~

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ツイッターでは一時、話題のキーワードをすべて登場人物や作品名で埋め尽くされた『鉄血のオルフェンズ』シリーズ。ついに42日で最終回を迎え、第1シーズンから引き続いて行われた第2シーズンではさまざまな人が死に、毎週放送終了後に話題となった。

 

そんな『鉄血のオルフェンズ』をすべて見終えた私だが、小説を読み終えた後のような重々しくて、消化不良のような「モヤモヤ感」を覚えた。そこで、自分が納得するためにも今回は筆を取ってみようと思う。

 

やはりバッドエンドになった『鉄血のオルフェンズ

 

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』は、第1期が201510月からスタートし、201742日に最終回を放送した。従来のガンダムではお馴染みのビーム兵器は出てくることが無く、モビルスーツ同士が大きな鈍器で殴り合い、実弾の銃兵器を撃ち合うという少し変わった趣向となっている。

 

また、本作の軸となってくるのは、タイトルにもあるように「孤児」というキーワード。オルフェンズとは「孤児たち」という意味であり、主人公である三日月・オーガスオルガ・イツカたちはすべて「孤児」である。また、彼らが作り上げる「鉄華団」も孤児や、ヒューマンデブリと呼ばれる人身売買されて行き場のない子どもたちが集まり、傭兵集団として名乗りを上げるのが第1シリーズの主な流れとなる。

 

孤児たちが主人公であり、明確に敵を倒すという目的が出発点ではない。火星の独立を目指すクーデリアという少女を地球へ運ぶまでの物語であり、その道中で邪魔となる軍隊「ギャラルホルン」や、宇宙航路を牛耳る各企業との闘いが主になる。

 

これらの対外勢力と闘う際には、ガンダムシリーズではお馴染みの「モビルスーツ」で闘うことになるが、割と白兵戦も多かった気がする。第1シーズンでは開幕早々、三日月がギャラルホルンの将校とモビルスーツで決闘することになる。しかし、モビルスーツで決着が付き、将校と三日月が対面する。従来ならばモビルスーツごとパイロットを粉砕するか、その後は会話だけで終わるのが通例であった。しかし、三日月は対面した将校をピストルで撃ち殺す。これは今までのガンダムシリーズでは考えられない決着であった。

 

そんな危険思想を持った子供たちが主役なのである。『鉄血のオルフェンズ』内の子供たちは、劇中で大人たちからさんざんな扱いを受けているため、よほどのことが無い限り彼らの人生や価値観が変わることなんて無いのである。それは大人でも同じで、社会にもまれた大人が、いきなり「明日から別の考え方で動いてね」なんて言われても、簡単に変わらないのと同じ。

 

孤児として育てられ、生まれてから銃しか握らなかった彼らが、世界平和のためや主義・主張のために闘うことなんて考えられないのだ。劇中でも文字の読み書きも知らず、しかもお金の使い方も知らない。そんな子供たちが主役だったのが『鉄血のオルフェンズ』である。

 

危険な思想を持ち、将来への希望も持たず「前進すること」だけが目標だったオルフェンズたち。彼らのスタート地点が歪であったことも考えると、やはりラストが大団円のハッピーエンドになるわけがない。

 

概ねは予想通りのラスト

 

 

 

1シーズンは鉄華団がのし上がり、腐敗したギャラルホルンに一泡吹かせるといった物語が進んでいった。その中には、ギャラルホルンを改変しようとしたマクギリスの協力もあり、第1シーズンは勧善懲悪のようなストーリー展開となった。

 

しかし、第2シーズンでは急成長した鉄華団にほころびが見え始める。のし上がった先の目標が見えず、数々の組織にいいように使われていくような立ち位置になってしまう。最終的にはマクギリス側に鉄華団は付き、ギャラルホルンの改革に加担することになる。

 

しかし、マクギリスが改革のために裏で手を引いていたことをすべて知っている、ガエリオという人間が登場。彼は第1シーズンで死んだように見えたが、第2シーズンでは「仮面の男」として暗躍するのだ。すべての顛末を観た上で、ガエリオはマクギリスに復讐するかどうか考えていたようだ。

 

しかし、マクギリスのやり方に異を唱えるガエリオは、ギャラルホルンの中でも政治的手腕に富んだラスタル陣営に加担。そして、マクギリス陣営とラスタル陣営での部隊衝突へと物語が流れていく。

 

ここで鉄華団にとって大きな誤算だったのは、マクギリスに多くの過ちがあったこと。マクギリスは、ギャラルホルンの権威とされる「ガンダムバエル」を手に入れればすべてうまく行くと踏んでいた。しかし、その計算はすぐに崩れ、あっというまにラスタル陣営が有利になる。大事な仲間を多く失いながら、鉄華団は火星への撤退を余儀なくされ、そのままギャラルホルンとの戦闘にもつれ込む。

 

1つの傭兵団体が、世界の秩序を守る軍隊相手には力及ばず、どんどん劣勢になっていく。しかし、三日月のガンダムバルバトスルプスレクスと、メンバーである昭宏が駆るガンダムグシオンリベイクフルシティ2機だけで、その戦場を掌握しようとする。その努力もむなしく、禁止兵器とされるダンスレイブによって致命傷を受けてしまう。

 

ボロボロになったところに、ラスタルの腹心であるジュリエットがモビルスーツに乗ってやってくる。すでに死んでいると思われる三日月と昭宏だが、悪魔の名を冠するモビルスーツに取り込まれ、ボロボロの状態ながらギャラルホルン陣営をどんどん制圧する。

 

しかし、それでも戦況をひっくり返すほどの力は無く、最後には昭宏も力尽き、三日月もジュリエットと闘おうとするときには、すでに意識が無かった。最後にジュリエットはバルバトスの首をもぎ取り、勝ち鬨を上げて物語は幕を閉じる。

 

それでもなぜか「良かった」と思える不思議感覚

 

 

 

 

最終回ではさらに、鉄華団がいなくなった後の世界を少しだけ映し出した。鉄華団の名前は語り継がれることはなく、すべては「マクギリスの謀反」として時間が流れていた。その後はラスタルが地球圏においてギャラルホルンの政治を動かすこととなり、火星からもギャラルホルンの撤退を決めて自治権を認める。自治権を認められた火星では、第1シーズンから火星独立運動を行っていたクーデリアが治めることになる。

 

すべての鉄華団員が死んだわけではなく、数名は生き残って火星や地球で生活を送っていた。その生き残りの1人であるアトラは、三日月との間に出来た子どもを無事に出産をしていた。孤児やヒューマンデブリを身近に見ていたクーデリアは、アトラと三日月の間にできた子供を抱き、未来が作られたという余韻が残るエンディングとなった。

 

ラストだけみれば、ある種希望のあるエンディングになっていて、個人的にはかなり好きだった。政治面は実力のあるラスタルが治め、火星の自治権が認められると同時に、その功績者の1人であるクーデリアがその座に収まった。復讐に燃えていたガエリオも戦闘による後遺症を残しながら、元の好青年に戻っている。

 

鉄華団の生き残りメンバーもそれぞれ戦争のない世界に溶け込み、「鉄華団」の活躍があったからこそ、その延長線上で生きている人間がいることを示唆していた。これは大河ドラマや洋画などでも見られる映し方で、主人公たちがたどった歴史を如実に語ったという意味では、感動できるガンダムシリーズとなった。

 

特に、ガンダムシリーズの中で主人公が明確に死んでいるにも関わらず、その子どもが生まれて次世代につながっているとわかるシーンは感涙もの。エンディング曲の中で何度も使われる写真立てのシーンがあるのだが、その写真を見ているのが、三日月とアトラの子供からの視線だとわかったときは、声を上げそうになる。

 

しかし、どうしても腑に落ちない点が3つほどある

 

このラストは確かに好きだ。だが、納得できないという感覚もあった。多くの人も触れているが、やはり尺不足や描写不足の部分は否めない感じがするからだろう。

 

ラスタルは第2クールから登場したが、単純に政治的手腕がある人間であることはわかる。しかし、彼の存在感がどんどんと膨らんでいくのは違和感があった。

 

マクギリスはギャラルホルンの改変を望み、さまざまな網を張り巡らしていた。それに対してラスタルは、現状のギャラルホルンを残そうとして動いていた。これについてはわかるし、第2シーズンでもこの2者が対峙することで、思惑が透けて見えるエピソードもあった。

 

最終回ではラスタルギャラルホルンの統治者となり、さらには民主化に向けた改革をどんどんと行ってしまう。さらには火星の支配も放棄して、自治権をクーデリアに渡す。マクギリスは結局ラスト手前で戦死するし、結局は「力」に固執する伝統崇拝者でしかなかった。そのため、マクギリスが為政者になったとしても、彼自身が考える「階級の無い政治」や「民主的な世界」を実現できなかっただろう。そのため、マクギリス討伐を行ったラスタルが、歴史の代表者として改革を行うのはわかる。

 

しかし、なぜラスタルが民主的かつ火星の自治権放棄といった改革を行おうとしたのかがわからなかった。元々は「ギャラルホルンの維持」という形でマクギリスと対峙していたし、そのために第2シーズン前半では対立していた。もし、ラスタルが早めにマクギリスの愚かさに気づき、「マクギリスでは改革は無理だ」みたいなシーンが1カットでもあれば、ラスタルが本来は民主的で、「清濁併せ呑む」人物であることにも納得できる。もしくは、ラスタルが本当に「清濁併せ吞む」のであれば、一度くらいは彼と直接話し合うシーンなどがあり、本当はお互いの目指す世界があっていないというシーンがあってもよかったと思う。それをわかるだけのエピソードが、ちょっと無かったかなと個人的には思ってしまう。

 

また、クーデリアも第1シーズンでは多く登場し、地球にて蒔苗という政治家のバックアップを受けることになる。その道中での三日月たちとのやり取りや、蒔苗との触れ合いで為政者として成長するのはわかるが、急に火星の自治権を与えられて、統治者となる辺りが急すぎるかなとやはり思ってしまう。

 

実は、第2シーズンではクーデリアにスポットが当てられたエピソードは少なく、いきなり火星を統治できるほどの活躍があったかと言えば、少し難しい部分がある。しかも、第2シーズンのはじめでは、第1シーズンで自分が地球で行ったような行動には加担しないと言っていたのに、ラストでは火星の為政者となる。これにはさすがに疑問を感じてしまう。中には、第2シーズンでも蒔苗と会話するシーンがあったので、そのシーンから汲み取るしかないのかと思ってしまう。

 

さらに、ラスタルと対峙関係にあってマクギリスだが、第1シーズンと比べて思慮のない行動が目立ったのも残念でならなかった。確かに、第1シーズンでは「仮面の男」となって暗躍し、ギャラルホルン改変のために動いていた節があった。さながら「シャア」のような立ち位置だったのだが、第2シーズンではガンダムバエルを手に入れてからは無策が目立った結果となった。

 

マクギリスについても、第2シーズンになってから「孤児」であったことが判明する。そのため、今回の『鉄血のオルフェンズ』で言えば、完全に三日月たちと同じく危険な思想を持った人間なのである。たしかに、第1シーズンからバルバトスを妙に評価している点など、今考えればギャラルホルンらしくないというか、そもそも一将校とは思えない発言はしている。だから、第1シーズンからあまり好きではなかったのだが、第2シーズンでここまでの無策っぷりを見せるのであれば、もっとサイコパスなキャラクターか、力に狂っている描写をはじめから入れて欲しかったと切に感じる。

 

 

 

 

特に、ラストにてガエリオとの会話をしたシーン。「否定しないと前進できなかった」というのは、何か物事を新しくはじめたり、ものつくりをする人ならば誰もが共感できる言葉だ。そして、改革を目指す人が陥りやすい思想を見事に表している。この名言があるからこそ、マクギリスというキャラクターが残念でならない。

 

よく考えると、一貫して「鉄華団」視点で「ガンダム」が主役だった

 

ラストのインパクトのある感動はいいのだが、その過程におけるプロットがチグハグなため、胸にしこりがのこってしまった『鉄血のオルフェンズ』シリーズ。だが、改めて考え直すと、これがあくまで「ガンダムシリーズ」であり、鉄華団たちにスポットを当てた物語なのであれば、いくらかは納得できるラストかなと思えてきた。

 

鉄血のオルフェンズ』の中で、一番ぶれなかったのは「家族」というテーマだろう。鉄華団のリーダーであるオルガも、孤児たちの居場所を作りたくて鉄華団を作り、家族に慣れる場所を作ろうと奔走した。だが、孤児たちには戦争で経験した鉄と血しかなく、彼らの生き方はあまりにももろかった。その危うさを表現しているという意味では、かなり楽しめた作品だなと思う。

 

その鉄華団の活躍を描いているのが『鉄血のオルフェンズ』であるわけだが、よく考えれば物語の軸は鉄華団にある。第2シーズンでは主役がガエリオなどに移ったように見えるし、噂では脚本家がガエリオが好きなので、視点が変わったとも言われている。しかし、ラストの展開も鉄華団たちが解散した後の時代と考えれば、ラスタルが政治に成功したことや、火星が解放されたことは些末な問題だろう。

 

大事なのは、生き残った人たちがどのように生活しているかだけなのだ。そう考えると、ラスト15分ほどのめちゃくちゃに見える道筋も、全体の鉄華団の物語としてはどうでもいいのかもしれない。実話をもとにした洋画でも、ラスト5分ほどでその偉人のその後を語るシーンなどがあるのだが、物語を楽しんだ人からすれば、それらは本編に関わる地続きの話だから、語られることに意味があるのだ。

 

なので、鉄血のラストにおいても、三日月の子供が生きており、生き残りのメンバーが何らかの幸せをつかんでいることが重要なのだ。ラストで下手にラスタル陣営の話を映すのではなくて、ずっと鉄華団のその後を映したシーンを映したり、鉄華団サイドからラスタル陣営を映すなどをすれば、もっと気持ちのいいラストだったかもしれない。

 

また、忘れがちだがあくまで今回はガンダムシリーズだ。そして、ガンダムの名前にはソロモン72柱の悪魔の名前が冠されていた。三日月たちは悪魔の名前を持つモビルスーツに乗り込むのだが、その悪魔がたどる結末と考えれば、この物語も面白いものとなる。

 

悪魔は基本的に人に力を貸す。しかし、その力には必ずリスクが存在しており、三日月たちはガンダムに乗る度に何らかの代償を支払うことになった。三日月ならば体が動かなくなっていき、昭宏ならば大事な人を失っていく。こうして三日月たちは悪魔に乗り込むことで、物語内で力を得る代わりに前進するが、徐々に力に取り付かれていく結果となる。

 

また、三日月たちは悪魔というわかりやすい名前のついたモビルスーツに乗ることで、歴史的にも悪役となっていった。そして、ラストには悪役としての役割を全うし、歴史という舞台から退出する形となったのだ。実は、敵側の主力モビルスーツである「グレイズ」だが、彼らは「ヴァルキュリアフレーム」というフレームの亜種として存在している。そのモビルスーツが三日月たちを囲んでいるのは、さながら人間が正義の名のもとに、少数民族を悪魔と決めつけて「悪魔狩り」をしている姿と変わらない。

 

このような対比として考えてみても、しっかりとガンダムは「悪役」として主役になっているし、面白い構図となって描いているのだと思う。実際にヴァルキュリアフレームに乗った人間が歴史の礎を作るようになり、敗者は悪魔となる。しかし、ガンダムと闘ったガエリオとジュリエットだけは、三日月たちを「必死に生きた人間だった」とラストに認めたのも、「結局は誰しもが悪魔にも天使にもなる」という戦争を経験した人間の示唆のようになっていて好きだった。

 

「好きだけどおもしろくない」作品があれば、「好きじゃないけどおもしろい」作品がある

 

ぶっちゃけた話、『鉄血のオルフェンズ』はラストに至るまでの展開は面白くない。どう考えても、ラストに至るまでの過程で穴があるように感じてしまう。しかし、孤児たちが必死に生きた姿を描き切ったのは非常に興味的だったし、結局ラストまでは観ている自分がいたし、こうして筆を取るぐらいには心に残っているのは事実なのである。それだけセンセーショナルなアニメだったと、個人的には感じている。だから、「好きだけどおもしろくない」作品なのである。

 

もちろん、反対に「好きじゃないけれどおもしろい」作品だって存在する。同じガンダムならば「SEED」がその典型例だし、監督が同じだけど「クロスアンジュ」も好きではないけれどおもしろいと感じる作品だった。単純に見やすくて、キャラクター達の行動理念に筋が通っているので、非常に楽しかった。

 

これはアニメだけでなく小説や映画すべてに言えることではないかと思うが、扱っている題材はいいけれど、その見せ方がイマイチであったり、反対に見せ方はよくても内容が好きでなかったりというのはあると思う。アニメや映画、小説というものは、単純に面白いものと面白くないもので淘汰される。別にそれはそれでいいと思う。

 

だが、やはりそれだけでは本当の「作品」は生まれないのだろう。普段はそこまで深く考えてアニメや映画なんて見る必要が無いかもしれない。それでも、簡単に「おもしろくない」と否定せず、「この作品は~の点がおもしろい」と感じられるようになれば、自然と視聴者の視点だって増えることを信じて、今回こうして筆を取っている節もある。アニメや映画も、そうした余裕をもって見るぐらいのほうが気持ちいいだろう。

 

数々の映画の中には、題材も見せ方も完璧な作品があるのだ。だが、『鉄血のオルフェンズ』は物語の展開的にちょっと押しつけがましい感じが出ていると思う。だからこそ、おもしろくないのである。でも、題材は今風で、ラストは感情的になってしまうものがあった。

 

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