ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「同属擁護」こそ忌むべきもの


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ぼくは村上龍が好きである。それは、過去に記事にもしているのでご覧下さっている方もいるかと思う。
 
 
村上氏の中でも特に同意するのが「全体主義」というか、人が多く集まる場所に対する恐怖である。
 
何かを強制されている個人や集団を見ると、ただそれだけで、不快になるのだ

 

 
「いじめ」を考えてみても、1人1人は大したことないのに、集団になると人は大きな顔をする。僕は中学の部活で先輩たちからいじめに近いものを受けた。その中には小さい時遊んでいた兄貴分的な人もいたのに、その人もグループに入って僕を笑っているのを見たときは、中学時代の僕でもゾッとしたのを覚えている。
 
高校時代にもそれに近いものを受けたことをあったが、中学時代に人間集団の盲点というか、弱点を知っていたのでそこまで困りはしなかった。その弱点とは、先ほども話した通り「1人1人は大したことない」点である。
 
群れる人間はどこか弱い。核となる人間は強くても、それに連ねる人間には弱い奴がいることが多い。しかも、そのような人間ほど威勢だけいい。だから、その弱い人間を殴りでもすればグループは瓦解する。むしろ、弱く鬱陶しい人をのすことで自分の地位も上がったりする。僕は人の集団の脆さというか、こういう部分を知っているからこそ会社とかが嫌いなのかもしれない。
 
会社がすべてこのようないじめグループと同じだとは言わない。だが、悲しいことにこの「同属擁護」や「同属意識」は、多くの会社に対して感じてしまう。
 

集団で弱者を追い詰めるのが「いじめ」

 
僕は先日、こんな記事を見つけた。
 
 
記事内では「ヘルプマーク」のことについて触れており、僕は「ヘルプマーク」のことを知っていた。実際に見たことないが、まだまだ認知されていないのだと思った(そんな中でマタニティマークとか訳のわからないものまで増えようとしている)
 
僕は今さらこのマークの認知度に対して注目したのではない。僕が注目したのは、このマークに対するおばさんたちの態度である。この態度は、見ようではいじめと同じではないだろうか。
 
結局、「いじめ」とは何だろうか。
 
この定義をやねくりまわして議論のすり替えをする人も多いが、僕としては「マジョリティによるマイノリティの圧力」だと思っている。多数派や大人数になった集団が、少数派や孤独な人を弾圧する姿勢は、それらは「いじめ」と称していいと僕は思っている。
 
社会的に体の不自由な人はマイノリティになってくると思う。その事実は変えようがない。ないのだから「どのように社会的に受け入れるか」を考える方が建設だと思う。しかし、紹介した記事のおばさんたちは、自分たちが健常者というマイノリティの威を借りて「ヘルプマーク」を持った女性の権利を蹂躙した。これは、彼女が社会の中で生きたい意志を多数派の意見で潰そうとする行為である。
 
別に「すべての人が幸福に」なんて幸せなことを言うつもりはない。だが、人の「生きたい」という意志を踏みにじることはあってはならない。このような記事を見ると、まだまだ日本は村的社会だと思ってしまう。
 

映画「手紙」から考える「差別する心理」

 
僕の好きな映画の中に「手紙」がある。東野圭吾氏の著書で、殺人を犯した兄を持った弟が社会的に差別され続ける姿を描いたものである。
 
この映画のあるワンシーンに「人は差別する生き物だ」という言葉がある。確かに人は自分と違うものを忌むべきものとして捉える。これは、ある種の防衛本能だ。
 
だから、マイノリティに属さない人を排除しようとするのは自然摂理の一種だと思う。しかし、その排除の姿勢が過敏というか恣意的なものになると「社会」が成り立たないのも事実なのである。
 
 
この記事には、テロが起こった時の対処方が記されてある。日本も他人事ではないと思いながら読んでいると、最後の方に「生き残るためには他者との連携が必要」との項目があった。
 
僕は事実だと思う。先ほどのマイノリティ・マジョリティの話に併せればテロリストたちは圧倒的マジョリティである。では、それに対抗するためには国中の人が助け合って生き延びる必要がある。
 
別にテロリストに限った話ではない。生きることを考えるのではあれば、マイノリティに埋もれているだけでは生きられない。自分たちは違うものを受け入れないと前に進めないことがある。
自分の価値観や人種が違うものが混ざるところには自然とルールなどが必要になり、パブリックが形成され、人が集まる場所が生まれてくる。それが町や大きな都市へなっていくのだと思う。
 
でも、今の日本人にこのような都市形成ができているのか疑問だし、テロ時に連携ができるのか疑問に思った。
 
 
先日起こった大学生による監禁事件だが、監禁場所に少女がいることを誰も気付かなかったようである。
しかし、僕は本当に「気付けなかったのか」とも思った。どこかで気づけるタイミングがあったのではないかと、やはり思ってしまう。
 
今の日本では「いじめ」感覚の集団はあっても、地域社会の「パブリック」としての集団はないと感じている。
それは「ヘルプマーク」への反応、監禁事件に気付けなかった近隣住民の記事が物語っているのではないかと思う。
 

 日本の集団は「同類の集まり」感が強い

 
今の時代は、パーソナルになれる環境が増えると共に自分を中心に環境を作ることが簡単になっている。これは、日本にとってあまりいい傾向ではないと思った。
 
日本では恣意的に集団を作り、その集団の発言権が強いと有利になる。しかも、その集団は団体ではなく1つの「パーソナル」にもなる。会社を想像してもらえるとわかりやすいかと思う。会社を経営する人は、そこに所属する人をまるで自分の手足のように使う。
 
すべてではないけれど、結局集団に対する関わり方が「個人」の延長線上でしかないのだと思う。本当の意味で未知のものや自分と違うものを受け入れざる得ない場所としての「パブリック」が存在していない。
だから、結局は自分の尺度でしか物事を測れない。他人のことを想像するはおろか「自分はマイノリティにいるのだから想像する必要はない」という思考に陥るのだと思う。でも、そのマイノリティはごく僅かな村的社会でしかないのだ。パブリックではない。その小さなマイノリティを守るために、人は自分と同じ人を見つけて擁護する。
 
今の日本では、どれだけ若い人が国を替えたくても「高齢者層」という圧倒的なマイノリティが存在する。その影響もあってか、僕のような世代は「ロスジェネ世代」なんていわれ、揶揄の対象になる。
 
しかし、それは数のマジックみたいなもので、ただ若者を忌む層が多いだけな気もする。言わば「いじめ」の構造と同じような状態を感じなくもない。
 
別に高齢者や年配の人を差別したいわけではない。しかし、このように声を上げておかないと圧倒的な物量だけで僕たちが本当に潰されそうな恐怖がある。この感覚は、僕が中学時代に体験した肌触りと同じなのだ。
 
最後に、ひとつだけ記事を紹介して終わりたいと思う。
 
これも、すべての年配がこのような状態とは言いたくない。しかし、顕著に若者や子どもを虐げるマイノリティが増えているのを、如実に語っている気がしてならない。
 
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