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ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

ワガママと批評の間 ~書くことは「記録」だけを意味しない~

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村上龍を執筆した後……

 
先日は村上龍に対する記事を読んでいただき、非常にうれしかったです。ありがとうございます。
 
 
村上龍のことについて語ったあと、僕はこんな記事を発見した。
 
黒板をノートではなく写メで記録すれば、「先生の話に集中できる」「内容を漏らさす記録できる」「ノートに写すよりも圧倒的に早い(時間短縮)」と、いいことだらけです。デメリットとしては、授業中にパシャパシャと音がなるくらいかなと思います。
 

一方で、ノートをとる事の利点は「手を動かして書いた方が頭に入る」「先生にやっていますアピールができる」「後で見返せることができる(これは写メも同じ)」といった点が考えられます。

でもやっぱり、効率悪い!遅い!めんどくさい!今の時代にわざわざ紙に書く意味がわからない!とデメリットの方が多いのではないかと思うのです。そこで、あるとき学校で、ノートを取らずに黒板を写メで撮ろうと思いました。

でも、これは認められませんでした。「何言ってんの?」レベルです。そもそも学校には携帯を持ち込んではいけませんでした。……学校って、おかしい。「ダメなものはダメ」というのがその理由です。

https://news.careerconnection.jp/?p=21114

 
書いてあることにどうこう言うつもりはないし、頭ごなしに批判するつもりはない。ただ、コメント欄を見ると中々に荒れている様子だった。
 
確かに、書く側の立場からすれば書くことの本質は「記録」ではなくて「整理」である。
ネット記事ならば、本数も本数であるため骨組み作成から執筆までパソコン上で行う。しかし、小説や脚本を執筆するときはノートに整理や案出し、骨組み作成を必ず行う。自分が整理できていないもので、人に理解を促したり「おもしろ味」を提供できるなんて、僕には絶対に無理である。かの村上龍氏も「希望の国エクソダス」を書く際に、膨大な取材ノートを取っていたことは、有名な話である。
 
先ほどの記事から教訓を得るのであれば、情報を共有しているようで、実は自分にわかる形でしか解釈していない点だろうか。
 

アウトプットする意味

 
今ではSNSや、以前紹介した「キャプチャー」という文化が発達している。誰でも簡単に情報を発信して、誰でも共有できる。これは大いに歓迎していいだろう。以前、こちらの記事でも僕はキャプチャー文化について書いている。
 
 
しかし、提供する側となったとき「私はこれがおもしろかった」、「これはためになった」という主観で物事の伝達が行われていることは、問題点である。
自分が感じた主観でしか物事が語られないので「相手がどう見るか」という点が欠如していまう。書く行為は、この「他者の目」があったとしてもわかる形に置き換えることである。
 
このように書くと、黒板を写メる全国の学生から「見るのは自分だけ」という反論が来るかもしれない。ならば、その写メを今の自分が理解できたとしても、未来の「自分」は理解できるのだろうか。
 
僕はできないと思う。
 
過去の自分も他者的な側面を持っており、また「キャプチャー」された情報ならばそこに「思考」は含まれない。ただの情報でしかないものに価値なんてない。情報は利用され、手垢に塗れ、人の間を通って初めて価値が生まれる。情報自体に価値や希少性があるのではなくて、他者との間に生まれるものが情報である。
 
直接批判はしないが、これが僕の「情報」や「書くこと」にかんする思考だと記録しておこうと思う。
 

厚切りジェイソンとの出会い

 
 
僕はつい最近まで塾講師の仕事もしていた。そのとき、学生から「厚切りジェイソン」という芸人がおもしろいと聞いた。
 
 
実際に検索してはじめて見かけた記事がこちらで、この記事はじめに挙げたものと違って思わず最後まで興味深く読んでしまった。
 
経歴を見ると、ただの芸人ではなくてIT系の企業に勤めている人のようだ。芸風はともかく、欧米人から見る日本のおかしいところの指摘や、批評するセンスが抜群だ。
 
 
 
この記事にあったツイートを見たけれど、これは以前僕も似たようなことを記事にしていた。もちろん、厚切りジェイソンのことを知らないときに書いたもので、この類似性に驚きをかくせなかった。
 
 

ryuuraita.hatenablog.com

 

たしかに、みんなが同じ場所にいて作業が流れるのは理想だろう。

しかし、今はパソコンでできる仕事も多いし、各家庭で事情も変化しつつある(男性サラリーマンだけで家庭のお金をまかなえるような時代ではないし、父子・母子家庭、介護をしている家庭など)。同業者の人のように、朝に体が動かさなくて十分な仕事に就けない人もいるだろう。

なのに、まるで学校のようにみんなが決まった時間に一斉に会社にへ行くというのも、わりと不効率なんじゃなかろうな。人材確保したいと言っている割には、会社の「仕事なんだからなんとかしろ」という、体育会系的な精神論が見え隠れして嫌になる。その結果、今やワーカーホリックや自殺者が後を絶たない現場があるわけだ。

ダメ人間のダメな発想 - ここだけのはなし

 

別に自分の意見が正しいことを言いたいのではなくて、はじめに挙げた社畜女子高生と厚切りジェイソンの記事の差は何だろうか。やはり、というか皮肉な話「書く力」が明暗を分けたのではないだろうか。
 

批判は自己主張するための道具ではない 

 
前者の記事では、やはり自分が手中したいことしか盛り込まれていない。僕としてもみんなが学校に通う必要性や成績評価には是非を唱えるべきだと思う。
しかし、社畜女子高生の記事では自分の行為が「どれだけ正しいのか」という主張しかない。しかも「これっておかしいよね」という半ば決め付けにかかるような書き方も気になる。他者にとって「どれだけメリットがあるか」、「これは正当な意見です」という、第三者に対する提示がない。そもそも、学校教育にかんする指摘が残念ながらズレている。
 
これに対して後者は、筆者自身の考えに基づいて、現代社会が抱える問題に対して指摘を加えている。質問者からの解答という形になっているが、質問に対するアンサーがウィットで批判に富んでいる。
普通に考えれば「遅刻なんて許されない」という日本的な風潮がある。しかし、厚切りジェイソンは欧米育ちなので、日本の全体主義や同調主義に対する違和感を唱えやすく、また「遅刻にうるさいのにダラダラ残業はいいんだね」と別の価値観を提供している。自分の立場から日本の風潮にどれだけ斬り込んでいいのかも心得ている気がする。前者の記事と比べると、明らかに自分が「何を提供できるのか」という部分を考えている。
 
批評と言えば、みんな毛嫌いするというか、非常に嫌なイメージを浮かべる人が多い。しかし、批評とは本来お互いのメリットを探し出す作業である。決して自分の主張の正しさを証明するものではない。お互いのメリットを探す、希望ある行為なのだ。しかし、その多くが閉じている上、未だに精神論で終わってる感じがある。
 

日本にもあった批判精神の源流 

 
日本では、残念ながら批評という文化は根付いていないだろう。過去には敬語という言葉で、相手を「いなす」ことに長けた人は多くいた。しかし、どれだけの人が敬語の技術を身につけているだろうか。

それだけでなく、日本人は日記にて個人の感情を色濃く表現してきた。他国では日記というのはログ代わりのものであることが多く、過去に随筆や日記が文学として興隆したのは日本ぐらいなのだとか。

更に言えば、日本古来から存在して日曜の夕方を飾る笑点も批判精神に富んでいる。洒落っ気や風刺が生まれたのも、舞台や文学の世界が元となっているものである。もっと時代を辿れば、鎌倉期などに栄えた説話集や奈良~平安期の歌物語には、男女や貴族の交友を洒落っ気(=批評)によって表現していた。
 
しかし、残念ながらその両方の文化は衰退の危機にある。日本人が唯一と言っていいほど「批評眼」を鍛える場であった敬語社会と日記の消失は、現代人の情報に対する捉え方・価値観に通ずるものがある気がする。
 
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