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ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「オトナ帝国」の悲しみ〜クレヨンしんちゃんの名作から〜

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映画クレヨンしんちゃんの名作と言えば、「嵐を呼ぶジャングル」や「黒雲斎の野望」、「ヘンダーランドの大冒険」などたくさんあります。その中でも、誰もがまず思いつく映画の中に「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!!オトナ帝国の逆襲」

こちらがあるかと思います。僕も年明け、何となく観たくなってDVDを見ました。もう何度目かわからないぐらい観ている「オトナ帝国」。しかし、久々に観たオトナ帝国は、僕にとって哀愁を感じさせるものとなっていました。

物語は、「イエスタディ・ワンスモア」という組織が 大人を80年~90年代の「におい」によって支配するところから始まります。日本が元気だった頃に返った大人たちは、現実世界をそっちのけで自分たちの世界にどっぷり浸かります。主人公のしんちゃんが幼稚園に登園する間、大人たちがメンコやコマ回し、縄跳びを楽しんでいる映像はシュールでありながら、割と笑えないと僕は思ってしまいました。

何が笑えないかというと、その映像は今の日本そのものだと思ったからです。

劇中では、大人顔負けの社会性を持つしんちゃんが、遊びに興じる大人たちの中を三輪車で走ります。しかも、妹の0歳児・ひまわりを背負って。この絵って、一歩間違えれば育児放棄した親から自立する子どもそのものなわけです。かなり大袈裟にいうと。

でも、現実問題として遊びだけでなく仕事によって、大人の保護や世話、教育を受けていない子どもは沢山いるかと思います。ニュースでも育児放棄がピックアップされる時代です。表面化していない問題を含めると、想像したくない数でしょう。

www.iza.ne.jp

このような事情を考えると、「オトナ帝国」って笑えない設定なんですよね。また、僕が今この「オトナ帝国」というネーミングは、なんとも言い得て妙だと感慨深くなってしまいます。

僕はこのブログで以前、大人と若者の断絶を書きました。個人的に感じている部分や、実体験を交えたブログです。

ryuuraita.hatenablog.com

オジサンは若者を教育、伝承することを放棄して、また若者も欲が衰退することでオジサンたちと交流することを放棄しています。この「オトナ帝国」という国は、言わば逃げたオジサンたちの砦のように僕には見えました。

「自分たちだけは栄光の時代にすがってでも生き残るのだ、今まで生きた世界にいつまでも閉じこもることで生き残るんだ」

劇中で最も感動するシーンの中に、しんちゃんの父親・ヒロシが靴の臭いをかぐことで家族の大切さを思い出すシーンがあります(気になる人は、見ることをおススメします笑)。

ヒロシが家族を形成するまでの回想シーンが終わると、小さなテーマパークのスタジオにて、ヒロシが胎児のようにうずくまりながらしんちゃんを抱きかかえます。そのテーマパークはハリボテで、すべてが虚像であることも印象的でした。

ハリボテのオトナ帝国を見たとき、僕は「妄想代理人」というアニメも思い出しました。

 このアニメも、自分の願望や欲求を満たすために「黄金バット」という架空の犯人を仕立て上げます。まさに「妄想を代理してもらう」ことで、自分の世界を汚すことなく欲求を満たせる。そんな設定のアニメです。

この記事では「オトナ帝国」に触れたいので言及は避けますけれど、このアニメを引き合いに出したのは、アニメのとあるシーンが「オトナ帝国」と被ったからです。

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画像に出ている初老の男性は、昔のやり方を忘れられない刑事。その刑事が生きやすい時代にさまようシーンがあります。この男性が迷いこんだ世界も虚像で、すべてハリボテだったというラストを迎えます。

そのシーンって、「オトナ帝国」で大人たちが迷い込んだにおいの世界と同じだと思うんです。自分が生きやすい時代に、自分たちのことを理解する人たちだけで世界を作る。そんな世界に対するアンチテーゼとして、「妄想代理人」も「オトナ帝国」も作られたんじゃないかなって、僕は思うんです。

別に誰もが分かり合って、理解し合う世界が理想とは思わないんです。ただ、どちらのアニメにも共通するのは「委縮」です。

ひとつの世界に閉じこもることで、その先の未来がどんどん先細りになる。まるで今の少子高齢化の縮図を見ている感覚になるアニメです。どちらのアニメでも、ひとつの世界だけに閉じこもる人たちには制裁が加えられていました。「オトナ帝国」であるクレヨンしんちゃんの場合は、さすがにそこまでブラックではありませんけれど。

どんどん大人になると、世の中の仕組みや仕事のやり方、人間関係も固定化されてきてその先が無くなっていく。そんな恐怖にも似た「日常の既視感」を感じることってないでしょうか?
僕たちの世界は広がっているように見えて、実はどんどん袋小路に入って行っていることも少なくありません。そんなとき、僕たちの頭をかすめるのは「過去の栄光」を焼きまわすことなんだと思います。
昔の楽しかった風景を思い浮かべ、同じ日常を繰り返せば幸せになる。そんな祈りに似た偶像崇拝が、今の僕たちを取り囲んでいるんじゃないかって思います。

音楽シーンのカバーや原作ありきの映画、ゲームのリメイク……。

今の日本を取り巻き、なんとか「日本」として動いているのって、よく考えると焼き回しされたものばかりな気がします。

何も新しいものだけがいいわけではなくて。今のリメイクやカバーで何が問題かと言うと、古きもので代替して、そこにすがっているのが問題だと思うんです。「オトナ帝国」のワンシーンでは、80年代を愛する人が小さな町を形成します。でも、その町はとても小さくて、いつも夕日で、今にも沈みそうな町です。「懐かしさ」しかない町に、未来ってあるのでしょうか?

若者が国会前にて叫んだり、デモをしたり、新しいビジネスを作ったりすのを、僕は否定できません。だってそれは、今の日本を覆う「80年代の既視感」を必死に振り払おうとする姿に見えなくもないからです。