ここだけのはなし

10人見れば、10通りの解釈がある。日常にてふと思ったことを自分なりに綴ります。

「ファイテングポーズ」を取ることの意味~重馬敬さんとの対談とロッキーと狼と~

1 常にファイティングポーズを構えている人たち

 

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本格的にライターなんてやっている内に、すでに年末までのカウントダウンが始まる時期になってきた。1日1日がまるで流星のように消えていくのを、僕はそこからなんとか明日へつながる星くずを拾い集める。そんな砂を掻き続けるようでありながら、不思議と未来へのトンネルは見えてくるような日常を送っている。

 

その中で付き合っていく人たちも、徐々に変化していったように感じる。もちろん今までの人間関係が壊れるとかいう意味ではなくて、より同じ発想やベクトルの方向が同じ人との濃度が濃くなった、というような感覚である。

 

その要素の1つに「ファイティングポーズを取り続ける」というものがある。

 

2 常に全力で立ち向かう

 

周りの人はとにかく拳を下げない。今やプロとして活動し、過去には誰もが知っているようなゲームタイトルのシナリオを書いている人だって、今でも新人と同じように賞へ応募している。

 

僕はとある機会に「シナリオ工房月光」という、シナリオ制作会社の代表をされている方とラジオで対談させていただいた機会がある。

 

シナリオ工房月光 重馬敬さんインタビューラジオ

↓↓↓

honmaru-radio.com

 

この話の中でも、代表である重馬氏は「常に挑戦を続けること」を止めていない。

 

さらに、シナリオを見ていただく機会もあったのだが、そこでも僕のシナリオをきちんと評価してくれた。厳しいながらも、それはどれも的確で、別に悪く言うためではない。それはきちんと「研磨」するための道具となる言葉だった。

 

きちんと人の評価ができるのは、僕はその人が自分のフィールドで戦い続けているからだと思った。戦っている人は、常に勝つための手段を考え続ける。だから、僕に足りないものや今後の方向性などの提案もどんどん吐き出してくれた。出し惜しみなんてない、こんなしがないライターにも全力だった。まさにファイティングポーズを取っていた。

 

3 戦うことは誰かを蹴落とすことではない

 

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僕は「ロッキー」という映画の影響もあって、ボクシングが大好きである。あの映画の何が人を惹きつけるのかと言えば、もちろん1人の男が愛する女のために戦い続けるところである。だけど、僕にはそれ以外に「戦いの描き方」にあると思う。

 

ロッキーは負け、ライバルのアポロは勝つ。しかし、この戦いで2人は何も失っていない。お互いに自身のプライドをかけ、自分の守りたいものを守るために戦う。

 

普通ならば、勝負をすれば勝ち負けが出る。それは出る、勝負なのだから。しかし、それはシンプルなスポーツ的な結果でしかなくて、それぞれの人間が抱える本質的な問題ではないし、その勝敗に周りの人間が何を感じようが勝手なのである。今の僕のように。

 

しかし、そうしたシンプルで自分の尊厳や大事なものを掛けた戦いほど、人の心を打つのである。彼らは自分の手にしたいものに向かってシンプルに立ち向かい、何物にも染まろうとしない姿が雄々しく見える。

 

4 狼は勝負で命まで奪わない

 

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現代では様々な人がさまざまな情報をやり取りする。ネットではまるで人が人のやることをイチイチ監視しているようで、反対に誰かの注目を浴びたくてどうしようもないような人ばかりのように感じて辟易とすることがある。

 

その点、勝負はシンプルでいい。勝負に集中しているときは雑念を忘れることができる。本当の意味で無我の境地に立った気分になれる。誰かから注目されたくて始めた勝負も、次第に自分が最も集中できる時間になっていた人もいるんじゃないかと思ったりする。

 

僕はこうした、本当に集中できる勝負というのは、必ずしも命のやり取りである必要はないと思っている。中にはそう考えない人もいるかもしれないが、本当の勝負とは狼のようであるべきだと思ったりする。

 

狼はナワバリ内でトップを決めるとき、勝負をする。その勝負で負けた狼は、命を取られることはない。負けた狼は自分からナワバリを去り、別の場所で自分のコミュニティを形成するのである。

 

今では勝負に負けたものは人生のどん底に落ち、ネットでは誹謗中傷の的になる。しかし、本来命を掛けたもの同士ならば、その健闘を讃えて、お互いの世界を広げるべきなのではないかと、僕は思ったりする。今では強者がすべてで、まるでその人にこうべを垂れていればいいような事勿れ主義が蔓延しているようで、個人的には鼻に付く。

 

別に敗者の擁護や、弱者への救済措置を述べたいのではない。ただ、周りの人間が何も知らずに、勝負に負けた人間を叩く姿に耐えかねないのである。

 

5  ファイティングポーズを取り続けるのは、生きていることの証明

 

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戦い続ける人間はストイックで、時には讃えられることもあれば、時には孤独になってしまうものだと思っている。だけど、それでいいんじゃないだろうか。勝ち続けるのも疲れるだけ出し、勝ち続けることが目的になっている時点で、それは勝負の本来の目的を忘れていることと同義だと僕は思う。

 

僕の中でだけれど、戦わない人は負けることは無いだろう。しかし、勝つこともない。それは、ニュートラルでは無くて存在しないことと同義なのではないかと感じるし、自分で勝負しない人ほど他人の結果に口出しをする。

 

理由なんて簡単である、その方が楽だからである。

 

映画に「おとなのけんか」というものがある。これは子供の喧嘩に大人がししゃりでる姿を皮肉った、内容的にも映像的にも舞台チックな映画になっている。

 

この大人の姿を見ていて、僕たちは喧嘩や勝負の仕方を忘れてしまったのではないかと感じてしまう。あまりにも平等という言葉や、平和的という言葉に毒されてしまい、僕たちはその便利な言葉を教祖のように崇めているだけで、本来の意味なんて忘れているんだと思う。

 

平和や平等という言葉で大事なのは、その言葉自体ではない。その言葉を理解し、別の形で表現しようとする姿勢そのものであると、僕は思ったりする。

 

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「正しい」とか「まちがい」とか〜シン・ゴジラをみて〜

シン・ゴジラの内容に少し触れます。大きなネタバレはないかと思いますが、自己責任でお願いします。

 

1・世の中に答えなんてない。自分で探せ

 

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なんてことはドラマや漫画などでよく耳にしそうだが、正しいと言えば正しい。こんなセリフを急にいったところで、その言葉の価値はそこまで意味を持たないのだろうし、ましてや居酒屋で偉そうにおっさんが若者に言っていれば、僕は胸のあたりがムカムカするだろう。

 

たしかに答えなんてない。社会に出れば正解とか不正解よりも、問題を解決する力が求められ、会社でもその力を求めるのだと思う。でも今は違うように感じる。みんな何かの答えを探し、「正しい」と「まちがい」を見分けるのに躍起になっているように見える。

 

2・「シン・ゴジラ」を見たのだが

 

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あの映画は単純にすごい。現代日本を覆う閉塞感に、大きな「ゴジラ」という巨大怪獣ないし、破壊神が現れて人間に審判を下そうとする。日本を破壊するカタルシスと、その絶望から立ち上がろうとする、人間本来の強さみたいなものが詰まっている。

 

シン・ゴジラ」の中に出てくる閉塞感のひとつに、政治的なものがある。過去に作られたアメリカ式の古い民主政治を粛々と信じ、未だにその方法に則って政治が続いている。だれがどう見ても絶望だ。でも僕は、その映画でもっと絶望を感じたシーンがあった。それは「デモ」だ。

 

シン・ゴジラ」内には、ゴジラをなんとかしようとする政府関係者がでてくる。しかし、そのことを何も知らない日本人が、東京がゴジラにて危機的状態であるにもかかわらずでもがはじまる。

 

僕ならば、そんな危機的状況になれば目の前の人を救おうと思う。それにもかかわらず、人は政治を「まちがい」と判断して、自分たちを「正しい」と肯定する。こんな自己肯定しかできない状況を、絶望と言わず何というだろうか。

 

3・自己主張に捉われた現代人

 

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今では1にも2にも自己主張が求められる。べつに自己主張が悪いとは言わない。でもそれが、自分の「欲」に基づき過ぎていて、僕はそうしたデモなどを見るたびに気分が悪くなる。

 

人間、そりゃ自己主張は必要である。自分に何ができて、何ができないか。僕がこうして文書を書いているのだって自己主張のひとつだし、その行為自体を否定するつもりはない。でも少なからず、こうして書く行為が「何かのプラスになる」ことは絶対に外せない。それが自己主張だと思っている。

 

例えばだけれど、ある男性が女性に対してアプローチしようとしている。その男性が女性に必死に「自己主張」したとしよう。アプローチではなく、「あなたが好きだ」という自己主張である。これで女性の心を掴めるかといえば、往々にしてノーだと思う。

 

先ほどの例で言えば、男性は女性に対して「好きだ」としか言っていない。それは男性の都合である。女性からすれば「知らない」という話で、急に自己主張してきた男なんて通りすがりのキャッチと変わらないわけである。

 

4・僕の場合は「自己主張」は、アプローチとも言い換えられる。

 

 

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簡単に言えば「相手にどうすれば自然と気持ちが伝わるか」を考えることである。もっと言えば逆算かもしれない。

 

自分の気持ちを実現するためには、自分が叫んだだけでは何も変わらない。確かに、まずは声ありきだ。声を上げるのは大事だけれど、そのあとに「どうすれはいいか」に変換しないといけない。

 

 

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あるバーのマスターの言葉だけど「騒ぐだけで願いが叶うボーナスステージは赤ちゃんで終わり」と言っていた。

 

これは非常に真理なのではないかと、僕なんかは思ってしまうわけである。

 

前にもこちらの記事で語ったけれど、人が叫んだだけでは何もない変わらない。そこに付随する行動や普段の生活が大事になってくる。べつに大きな行動をする必要はないと思う。何気ないことでいいから「幸せになりたい」や、「もっといい生活にしたい」という発想だと思う。

 

ここまで話すと「じゃあ行動できないと声を上げてはいけないのか」という話になるかもしれないが、別にそう言いたいわけではない。ここで大事になってくるのが「悲観的」という魔物に捉われているかどうかだと思う。

 

5・何も知らない人ほど「悲観的」になる

 

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このツイッターは非常に分かりやすいものだと思うが、何も知らない人は悲観的に考える。

 

このような症状は、東日本や熊本の地震の時にも言えたことだと思うが、当事者にとってはしんどいも楽しいもないのである。とにかくその日を生き抜くことが必要だし、とにかく元気になりたい。それにもかかわらず、日本では「偽善狩り」というものが起こり、勝手に周りの人が「正しい」とか「まちがい」を決めていくのである。

 

はじめの「シン・ゴジラ」の話でも、政府の対応やゴジラのことを何も知らない人がデモを起こしていたのだと思う。おそらくあのデモは、東京で被害にあった人以外だろう。

 

別にデモしてもいいし、自己主張を止めろと言いたいわけではない。でも、自分や世の中にある事象について、単純に「正しい」とか「まちがい」とかに触れてしまうと、一生「悲観的」という渦から抜けられないと思う。

 

「悲観的」な渦に飲み込まれるぐらいならば、僕は打算的であっても生き抜きたいと思う。誰かにアプローチしてそれで幸せになってもらい、それで自分も幸せになれる。こんな「WinWin」は他にないではないかと、僕は思ったりする。

 

もちろん、それでは味気ないから人間は「物語」を求めるのである。ぼくのこの文章だって、ある種「私」や「誰か」の物語であり、こんな文章にも、誰かが何かを求めてくれるのかもしれない。

 

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祝!!読者登録者さま50~60名ご紹介記事

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ども、リュウ・ライタです。

 

本日は久々に「読者登録者さま50~60名」のご紹介をさせていただきます!

 

非常に期間が空きまして、申し訳ありません。

 

ではでは、早速行きたいと思います。

 

inno.hateblo.jp

 

今回のトップバッターは「捗るブログ」です。ブログ内は食べ物や書籍などの情報が多く、タイトルにあるように「あなたの暇が捗る」という感じのないようになっています。スタバの情報などは魅力的だなと思いました。 

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

2つ目にご紹介するのは「ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回ってくる来るのか」というブログです。非常に魅力的なタイトルですよね、個人的には好きです! 内容も非常に濃いので、読み応えがあるものになっています。 

 

murasakai.hateblo.jp

 

3つ目は「ケーススタディの人生」です。書籍やニュースを題材にした記事を多く執筆されており、読んでいて「なるほど」と思わされるものが多くあります。使われている写真もきれいで、非常に参考になります。

 

akanefujita01.hatenablog.jp

 

4つ目は「あかねのすきなかくこと」です。タイトルにあるように「すきな」ことを書いているイメージがあるブログとなっています。本音でつづられる文章には、思わず共感する部分もあるのではないでしょうか。 

 

www.enjoy-natulife.com

 

5つ目に紹介するのは「俺ノート」です。多様なネタを記事にしているイメージがありますが、特にDIY的な内容がもっとも濃いように思います。また、それに付随するガジェットの話もありますので、自分で色々と手作りしたいときの参考になりますね。 

 

lechatdusamedi.hatenablog.com

 

6人目にご紹介するのは「猫の現象学」です。記事のタグが「阿保科」や「まじめ科」などとユーモアにあふれたものになっています。「山月記」の解釈などもあり、文学的なものを感じられるブログとなっています。 

 

toridashi-foh.hatenablog.com

 

7人目にご紹介するのは「海辺のにょろり」です。4歳児のお母さんをされている執筆さまが、ご自身が経験している内容や時事を題材に執筆しています。独特の視点が読んでいて非常に面白いと思うブログさまです。

 

serinyu-n.hatenablog.com

 

8人目にご紹介するのは「Appling」です。個人の主張がユーモアのあるツッコミなどを含みながら書かれており、思わずクスッとくるようなブログになっています。「5月10日」の話は、ほんとに奇跡的なお話です。

 

www.shijo-street-weekend.com

 

9人目にご紹介するのは「四条通り週末.com」です。京都を軸にしながら、世の中でおこることを記事しておられます。特に、選挙のことについて書かれている記事はついつい読んでしまうほど、熱意がこもっているように思います。

 

blog.happy-project.tokyo

 

 今回のラストを飾るのは「Happy project」です。ダイエットや占いなど、人が幸せになることを記事しているイメージがあるブログさまです。まだまだコンテンツは少なめですが、今後どのようなハッピーが生まれるのか楽しみです!

 

以上、今回の10名様でした。

 

ほんと、気まぐれな更新になっておりまして申し訳ありません!

 

とりあえず、残り20名様はしっかりと紹介させていただきますので

 

よろしくお願いします!

 

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久々に「風立ちぬ」を見て泣いちゃった理由を考える

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風立ちぬを見て泣いてしまった

 

久々に「風立ちぬ」を見たんだけれど、なぜか急に涙が止まらなくなった。

 

この映画を見るのはすでに3〜5回目とかになるのだけれど、前も感動はしても涙を流すことはなかった。単純に「いい映画だなぁ」とか「菜穂子さんみたいな人おらんわ」では無くて、現在の自分と照らし合わせる中で、どこか彼らに心打たれるものを感じたからだと思う。

 

結局、どちらも人間的に不完全

 

 この「風立ちぬ」に寄せられる感想としては、「二郎が勝手過ぎる」や「菜穂子かわいそう」などがあると思う。殊に、男女の間ではそういった意見に割れやすく、僕自身としてもそういう意見はよく聞いた。

 

でも今回見ていて思ったのは、結局のところ「どちらも人間的に不完全なんだな」という部分だった。

 

soramitama.com

 

こちらの記事を読んで、僕も「なるほど」と思った。なんだかんだいうけれど、2人とも不完全なんだなという点で、僕も合点がいった。

 

この映画のテーマには「生きねば」というものもありますが、もう1つに「正直さ」や「正しさ」みたいなものがあると思っている。

 

二郎は冒頭から飛行機の夢を追い、また苛められっ子から小さい子を救うシーンまであります。これは二郎が清く正しい人であるというイメージだけでなく、それだけ「己の正しさ」を追いかけている人間であることを裏付けているとおもう。事実、喧嘩して帰った二郎に母親は「ケンカはいけませんよ」と釘を刺している。これは暗に「融通の利かない子ども」というのをわかっているし、自分の「正義」に正直過ぎることを示唆しているんだと思った。

 

一見すると二郎は正しい。でも、それはあくまで自分に対してであり、他者や社会に対しての「正しさ」ではない。事実、彼は飛行機が戦争の産物になるのをわかっていながら、それでも飛行機を作り続けた。劇中でも「機関銃が無ければいい飛行機になる」とわかっていながら、彼は飛行機を作り続けた。世の中を変えるつもりはなかった、という結論にも至ることができると、僕自身は思った。彼はいい意味でも悪い意味でも、少年のまま成長していなかった。だからずっと飛行機を作り続けてこられた。そういう解釈もあるなと感じることができた。

 

これに対して菜穂子も、やはり「正直」な女性だったんだなと思う。
自分を地震のとき助けてくれた男性を一途に思い、その男性の夢を側でずっと見続けることを病気になっても思う。一途だ、でも悪い見方をすれば「世間知らず」な女性である。

 

菜穂子自身の家が裕福で、箱入り娘のような部分は多々見受けられる。それ故に「世間知らず」であったとしても仕方ないとは思う。それでも、二郎に対する思いに応えようとする彼女は、どこか「少女」のように見えて仕方がなかった。少女故に二郎に対して献身的で、自分を犠牲にしてでも「正直」できれいな自分を二郎に見せたかった。

 

一見すると、どちらもいい人で「正直」な人たちである。でも、やはりどこか不完全で、そんな人間臭い部分は、この「風立ちぬ」の魅力であると思う。

 

彼らが「正直」に成らざる得なかった時代

 

 二郎たちが生きた時代は、日本や世界中で戦争が起こる時代で、さらには世界恐慌(現代でもリーマンショックという形で起こっている)で職にあぶれる人が沢山おり、銀行も潰れてしまう時代であった。
このような時代になると、往々にして起こるのは犯罪で、誰もが生きるために不正などを働こうとする。でも、二郎と菜穂子は違った。彼らは反対に「正直」であり続けようとした。でもこれは、世界が混迷を極めていたからこそ、2人が防御反応的に「正直」に成らざるを得なかったとも僕は思った。

 

普通に考えれば、大人は危険な時代の中では、何とか生き抜こうと必死になり、何でもしてただ命を残すことを考えるだろう。でも、二郎と菜穂子は不完全であることや、自分たちが大人であるという認識には鈍感であったと思う。それよりも、自分たちが「どのように生きれば正直であり続けられるのか」という、ある種小説のテーマ(堀辰雄の「風立ちぬ」を考えれば十分考えられる)を背負っているのが、二郎と菜穂子なのではないかと思った。

 

劇中で二郎は、病床の菜穂子を「きれいだ」と言い続け、菜穂子も二郎がつくる飛行機を「きれいだ」と思い続けた。それが本当は負の側面を持っているが、彼ら2人の「正直さ」や「正しさ」を証明するには、あまりにも理不尽過ぎる現実だったんだと思う。それ故に過酷すぎる時代を見ることを避け、劇中で「僕たちには時間がない」と言っていたのであれば、彼ら2人が夢を語り、自分たちの夢を現実にするには、あまりにも切なすぎるのではないだろうか。

 

「不完全でいい」というメッセージ

 

僕は「風立ちぬ」を改めて見て、この作品の「生きねば」には「不完全でもいい」というメッセージもあるのではないかと思った。

 

二郎と菜穂子はあまりにも不完全な人だった。でも、それ故に誰よりも懸命に生きた。自分に正直に人生を送ることができた。そこには現代のような正解や不正解ではなく、ただ自分たちが「正直」であるために生き抜いた人生録だけがあった。生きるためだけに正解を求める、ある種の「正直さ」を捨てて生きる現代人へのアンチテーゼのように見えた。

 

人は純粋ではいられない。情報で溢れる現代では特に、さまざまなことを知ってしまう。そのメリットは当然あるが、僕は失ってしまっていることもたくさんあるのではないかと思っている。

 

別に二郎や菜穂子のように生きるのが正しいとは思わない。だけど、彼らのような人生を否定することも、同じく僕たちには全くない。彼らは誰よりも正直に生き、誰よりも悔いなく生き抜いた。

 

「風が立ちぬ、いざ生きめやも」

 

これは「生きることを試みなければいけない」という意図があるらしいが、「風立ちぬ」の映画ではまさに、自分たちに正直になって「生きることを試した」男女の物語だったのではないか。その一端に触れたからこそ、僕は急に涙してしまったのかもと、この文章を書いていて思った。

 

 

 

僕たちはネズミと同じである~「新世界より」を読んで思ったこと~

1 先日、私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。 

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www.glocallife.net

 

先日、こちらのブログ主さまにて私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。私としても、映像を見るのが苦手な人の意見はとても貴重なので、参考になりました。

 

ちなみに、ご紹介いただいたのはこちら。

↓↓↓

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さてさて、今回は映画ではなくて漫画(小説)を元に話をしていこうと思います。

 

僕は仕事で、漫画を紹介するような仕事にも携わっています。その中で「新世界より」という、貴志祐介氏によって書かれた小説を元に、コミカラズされた本を執筆することに。

 

原作はちょこっとだけしか知らなかったので、漫画を読むのは個人的に楽しかったです。で、その中で出てくる「バケネズミ」という存在がいるのですが。このバケネズミをコミカラズするに当たって「かなり力を入れたな~」と個人的には思ったりしながら読みました。でも、それ以上に「僕たちはネズミと何も変わらないなぁ」と、同時に思ったりもしました。

 

2 人はネットにて広い世界を手に入れていない

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headlines.yahoo.co.jp

 

もうすでに過去のことのようになっているが、アイドルが20か所も刺されてしまうニュースが飛び込んできた。刺された箇所から異常性はうかがえるし、何があったかなんて推測するつもりはない。ただ、僕が言及したいのは「ネズミと同じ」と言う点である。

 

新世界より」にて 出てくるバケネズミは、とある方法にて人間と同じように言語を理解し、二足歩行にて生活している。そして、ネズミの習性はそのままに集団にて生活を保っている。この集団には「女王」が存在し、その王の元で繁栄している。

 

僕はこの部分を漫画で読んで、別に人間も変わっていないと感じた。言語を使おうと使わないであろうと、同じ「集団」で暮らしている点は同じである。その広さや言語による集団の棲み分けが違うだけで、やっていることは何も変わらない。

 

「女王」を「言語」に変えても同じだし、「国」に変えてもいい。僕たち人間は、何かに属して生きているわけである。それにいい・悪いのどちらも感じながら、僕たちは生きているわけである。

 

でも、ネットでは少々理屈が違ってくる。ネットでは割と自由に所属先を選択できる。自分が居心地のいい場所にて会話をし、意見を述べる。よく掲示板などを見る人は感覚的に分かると思うが、1つの事案でも全く正反対の掲示板が存在することは多々あることです(昨年の安保法案はいい例だと思う)。

 

じゃあ、ネットを中心に物事を測るようになるとどうなってしまうのか。その1つの居場所が自分のよりどころとなり、ほかの意見に対する抵抗力が弱くなってしまうと僕は思う。自分の意見ばかり立てる人の環境は、あまりいいとは思っていない。むしろ、混合玉石の状態に身を置くほうが、バランス感覚は付いてくると僕自身は信じている。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。

 

これ以上は部外者だから何も言えないけれど、この記事やアイドルの案件から言えることは、ネットと言う何も介在しない場所でも、僕たちはいつの間にか何かに「所属」しようとしている点である。

 

加害者の男性は、アイドルに対して自分の所属できる場所を抱いていたのかもしれない。でも、唯一所属できるかもしれない場所=世界への経路を閉ざされた気持ちになったのではないかと、記事やニュースを見て僕は思ってしまった。誰にも相談できず、ただひたすらに「つながりたい」という欲望だけが……。

 

想像でしかないので言及しないが、僕たちは何かに所属したり認められることに躍起なのである。この「認められる」という点では、むしろネズミを凌いでいるかもしれない。

 

3 やたらと「つながること」はいいことか

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zasshi.news.yahoo.co.jp

 

リスクを回避するために、たとえば自分の本を出版した際にも、サイン会や握手会といったイベントの類いのものは一切やっていません。誰だからわからない人と接触するのは、それほどまでにリスクが高いことなんです。

 

 僕はこんな性格だから、「いい」と言われたものには何か裏がないか考えてしまう。紹介している記事にもあるように、人と会うにはリスクがあるし、相手の時間も奪っている。でも、色々とフリーになっている現代では、そうした垣根や警戒心が薄れているのも事実な気がする。

 

たとえばだけど、僕もネットにて「仕事のことで会いましょう」と急に言われたことがある。僕はその人と会うことになったのだけれど、時間にルーズで約束の時間通りにやってこなかった。僕は「なにかあったのですか」と聞いたけれど、別に用事はなかったらしい。

 

その日、彼が僕にした話と言えば、ネットビジネスの押し売りだった。僕はその間仕事もできず、ずっと彼の話を聞くだけで終わってしまった。事前に何のことかもっと聞けばよかったのだけれど、僕にとっては損害以外の何物でもなかった。彼は何も悪びれる感じもなく、断わったぼくを石でも見るかのように去ってしまった。

 

簡単に個人へアポを取れる環境は、大きなビジネスチャンスを生むことに違いない。また、彼にとっては新たな同志を見つける大きなチャンスだっただろう。でも、その思い込みが個人の「なにか」を奪うのだ。

 

今回のアイドルの件や個人的に感じる部分を含め、ネット環境によって「つながる」ことを見直す時期がやってきている。そんな気がしてならない。

 

4 さいごに

 

 

新世界より」にもあったように、既成概念にとらわれた種族や人類は、衰退の一途を辿っている。同じように、高い文明を扱いきれず邁進し続ける種族も衰退する。結局はこのどちらかを繰り返すしかないのかと思うと、僕は少々辟易としてしまう。

 

このやり取りは「バブル世代」と「ゆとり世代」と全く同じ構図であるように感じる。どちらかが「オヤジだから」と言えば、またどちらかが「これだからゆとりは」と言ってしまう。これと同じである。

 

ネットという道具は非常に便利である。ただ、一歩間違えば簡単に「ネズミ」と同じような生活になってしまう。「新世界より」という作品は、そんな怖さを伝えていたのだろうと僕は思った。

 

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「2時間の映画に耐えられない」のが現代人の嗜好

1 映画館で2時間座ってられない

 

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僕が先日会った人は「映画が苦手」と言っていた。映画好きの僕としては聞き捨てならず「なんで?」と聞き返すと、「2時間もじっと座ってるなんて耐えられない」とのことだった。
 
なかなかの理由にあんぐりとしてしまったのだけれど、昨今の映画不況を考えればいいわからなくもない。ただ、その人の話を聞いていくと、映画が「つまらない」というよりも、そもそも「映画を観る価値がわからない」という感じだった。
 

2 映画をなぜ観るのか

 

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映画を観る理由はさまざまである。自分では体験できない経験や人生を経験するためや、趣味として見る人もいる。あるいは、シナリオや映像を仕事にしている人が勉強として見たりする。
 
他の理由としては、他者との時間共有のために映画を手段にすることもあるだろう。簡単に言うとデートである。でも、最近はデートに映画を選ぶ人も少ない気はするものだ。
 
紀伊国屋」のとあるコーナーに「昔の人と今の人ではこんなにデートの価値観が違う」というものがあった。「昔」とは主に高度経済成長からバブル期を指しており、そこには高級志向が立ち並んでいた。ブティックやレストランなど、そのような場所にてデートをするのが一般的だった。
 
しかし、今ではモールやチェーン店、カフェでのお手軽な場所にてデートするのが主流となっている。昔に比べればカジュアル思考が強いと共に、僕は実益を兼ねているように感じた。
 

3 無駄が嫌いな現代人

 

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何かと「お金」と「時間」にうるさい昨今であるが、それは私生活にも浸透しつつあるのだと僕は思う。これが「映画離れ」の一端にもなっているのだと、僕は多少なりとも思うわけだ。
 
最近の若い人は2時間ドラマでも、最初から最後まで理解するのが難しいらしい。よく前のチャプターやシーンに戻りつつ内容を把握するするとか。単純に「理解する力の低下」という言葉で片付けるのはナンセンスだろう(事実、歴史に対する認識の低下を考えれば、もちろん0ではない)
 
しかし、現代に溢れるコンテンツを考えれば、2時間の物語を理解できないのも納得してしまう。
 
 
この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。
 
前の記事でも取り上げたが、今では1秒の動画がある世界。そして、短いコンテンツをたくさん楽しむのが現代風である。小説でいえば短編だろうか。
 
短いコンテンツが売れるのは、「二次創作」の流行とも結び付く気がする。1つのコンテンツから派生する別のコンテンツは、根元では共通部分がある。長い1つのものを楽しむのではなくて、自分が「おもしろい‼︎」と感じたものを手を替え品を替えて楽しむ。これならば、自分が一度気に入った「おもしろい‼︎」だからハズレを引く心配もない。忙しい現代人なりの楽しみ方なのかもしれない(これに味を占めて続編の嵐となり、コンテンツの質を低下させている側面もある)
 
この流行を考えると、やはり2時間もの時間で、さらに新しいもので現代人に「おもしろい‼︎」と思わせるのは、至難の技にも思う。
 

4 余裕のない国、日本

 

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僕はギリギリ昭和の人間だし、映画が好きだから言う。無駄が大好きである。
今の人みたいに、すべて時間とお金を引っ付けて考えることはできない。そんなギスギスした生活はまっぴら御免である。
 
しかし、現在の日本は貧乏である。これは今後僕たちが自覚しなければいけない事で、とくに「日本は戦後から立ち直った」と錯覚している人たちに突きつけなければいけない現実である。
 
 
この記事からもわかる通り、世界では物価は上がっている。それに対して日本では、物価は下がったままで円を大事にしている。
事実、外国人が日本を旅する事がおおくなっている。これは、自国で稼いだお金で日本に来るのは容易になっている表れだろう。僕が住む地域でも、心なしか外国人が増えたような気がする。
 
それだけで国の豊かさや価値を表すことはないが、現実問題として日本での住み辛さって上がってきている気がする。老人の今後だけでなく、将来を担う子どもに無頓着な運営。だめなことが分かっているのに、なかなか変えられない現実。
 
このむず痒さは異常のような気がするのだが、結局はデモや書き込みだけで終わってしまう残念さ。本質から変えるには、やはり政治や中央政権から変わるしかない。だけどその前に、自分たちが変わる必要がある。「攻殻機動隊」という有名なアニメの主人公も言っていた。
 
世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。
 
変わりたい気持ちは大いにあるのだと思う。でも、やるべきこともせずに「理想郷を作ろう」と言われても、その言葉は空虚である。ただ「世の中をよくしたい」や「保育園落ちた死ね」には恣意的なものを感じるし、本当はどうしたいのか見えない。だから、あまり支持する気持ちになれないんだと思う。
 

5 政治家が嫌がる事じゃなくて「お金を掛けたい」と思わせないと

 

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僕たち日本人は、どうしても公共やそれに属する人たちを「外の人」や「敵」と認識する。本当はそんなわけもなく、まぁ味方でも無い。彼らは限りなく「0」でないと行けないと思っている。
 
たとえば、街中にある公園。この公園は公共のもので、言ってしまえばその土地の行政のものである。しかし、多くの利用者はその土地に住む人たちのものである。この土地は行政の人たちが好き勝手に使っていいものではない。
 
しかし、この公園から遊ぶ声がうるさくて「撤去しろ」という声があったとしよう。実際にその声が大きくなって取り壊されたとする。この時点で−1となる。マイナスにしたのは誰か。そう、地元の人間である。行政は市民の声に従っただけである。これでは、政府や地元の行政がお金を掛けようとしても掛けられない。だってマイナスにしかならないのだから。
 
これはミクロな考え方だけど、これがどんどん大きくなって政治につながっているのだろう。もちろん、こんなに簡単ではないだろうが、根っこは同じなのではないかと思う。

6 どうせ「無駄」なら休みを充実させるほうがマシ

 

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僕たちがただ「〜反対」や「〜しね」という意見を言い続ける事にどれだけのメリットがあるのか。先ほどの例の通りである。マイナスはマイナスでしかないのである。無理に全体を変えようとすれば、それだけ歪が発生する。反対である、自分が変わらないといけないのである。
 
あくまで自分が住む街を作るのは自分たちだし、その土地での「公共」に属し、よくしていくアイデアは自分たちで考えるしかないのである。
 
無駄だと思われるような事をするならば、デモでは無くて、まずは自分の余暇を楽しむ事のほうが先なのではないだろうか。それこそ2時間の映画にも耐えられない人は、自分が行動して何かを変えたことに「何も変化していない」と、自分で自分を引っ掻きそうな気がする。

それに、余暇があればアイデアを生み出し、愚痴る前に「こうすれば生活がよくなる」という行動につながるのではないだろうか。そこに対する無駄なら、大いにすべきだと思う。
 
たとえばだけど、田舎で行われる「トライアスロン」なんていい例な気がする。田舎にも関わらずお金を掛けるのは、そこにメリットがあるからである。とかく政治に対するただの野次が最も「無駄」である。
 
あるバーのマスターの言葉だけど「騒ぐだけで願いが叶うボーナスステージは赤ちゃんで終わり」と言っていた。
 
これは非常に真理なのではないかと、僕なんかは思ってしまうわけである。
 
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引っ越しとコメント

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ども、リュウ・ライタです。

前々から決まっていた引っ越しが、

やっと完了しました。

いや〜面倒だった笑

まだ体はだるくて、書く仕事に

集中し切れない私がいます(-。-;

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あまりに片付けも飽きて、

その途中にあるゲームにて

遊んでしまう始末です。

……まぁ、あるあるなんじゃないですかね笑

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あと、ブックマークにコメントを

ちょくちょくいただいたり、

したりするのですが。

コメントもらったとき、

どうやって返すんですかね(-。-;笑

他の人にコメントしたとき、ちゃんと

返してくれる人の見ていると

「俺も返して〜」となるのですが、

自分はどう探しても返せない……( ´・‿・`)

あんまはてなのヘルプ、ヘルプしてくれないしなぁ……。

こんなこと言ってゴメンナサイ笑

でも、7割は事実な気がしますけどね〜

近況報告と愚痴になりましたけど笑

それでは、また。