久々に「風立ちぬ」を見て泣いちゃった理由を考える
風立ちぬを見て泣いてしまった
久々に「風立ちぬ」を見たんだけれど、なぜか急に涙が止まらなくなった。
この映画を見るのはすでに3〜5回目とかになるのだけれど、前も感動はしても涙を流すことはなかった。単純に「いい映画だなぁ」とか「菜穂子さんみたいな人おらんわ」では無くて、現在の自分と照らし合わせる中で、どこか彼らに心打たれるものを感じたからだと思う。
結局、どちらも人間的に不完全
この「風立ちぬ」に寄せられる感想としては、「二郎が勝手過ぎる」や「菜穂子かわいそう」などがあると思う。殊に、男女の間ではそういった意見に割れやすく、僕自身としてもそういう意見はよく聞いた。
でも今回見ていて思ったのは、結局のところ「どちらも人間的に不完全なんだな」という部分だった。
こちらの記事を読んで、僕も「なるほど」と思った。なんだかんだいうけれど、2人とも不完全なんだなという点で、僕も合点がいった。
この映画のテーマには「生きねば」というものもありますが、もう1つに「正直さ」や「正しさ」みたいなものがあると思っている。
二郎は冒頭から飛行機の夢を追い、また苛められっ子から小さい子を救うシーンまであります。これは二郎が清く正しい人であるというイメージだけでなく、それだけ「己の正しさ」を追いかけている人間であることを裏付けているとおもう。事実、喧嘩して帰った二郎に母親は「ケンカはいけませんよ」と釘を刺している。これは暗に「融通の利かない子ども」というのをわかっているし、自分の「正義」に正直過ぎることを示唆しているんだと思った。
一見すると二郎は正しい。でも、それはあくまで自分に対してであり、他者や社会に対しての「正しさ」ではない。事実、彼は飛行機が戦争の産物になるのをわかっていながら、それでも飛行機を作り続けた。劇中でも「機関銃が無ければいい飛行機になる」とわかっていながら、彼は飛行機を作り続けた。世の中を変えるつもりはなかった、という結論にも至ることができると、僕自身は思った。彼はいい意味でも悪い意味でも、少年のまま成長していなかった。だからずっと飛行機を作り続けてこられた。そういう解釈もあるなと感じることができた。
これに対して菜穂子も、やはり「正直」な女性だったんだなと思う。
自分を地震のとき助けてくれた男性を一途に思い、その男性の夢を側でずっと見続けることを病気になっても思う。一途だ、でも悪い見方をすれば「世間知らず」な女性である。
菜穂子自身の家が裕福で、箱入り娘のような部分は多々見受けられる。それ故に「世間知らず」であったとしても仕方ないとは思う。それでも、二郎に対する思いに応えようとする彼女は、どこか「少女」のように見えて仕方がなかった。少女故に二郎に対して献身的で、自分を犠牲にしてでも「正直」できれいな自分を二郎に見せたかった。
一見すると、どちらもいい人で「正直」な人たちである。でも、やはりどこか不完全で、そんな人間臭い部分は、この「風立ちぬ」の魅力であると思う。
彼らが「正直」に成らざる得なかった時代
二郎たちが生きた時代は、日本や世界中で戦争が起こる時代で、さらには世界恐慌(現代でもリーマンショックという形で起こっている)で職にあぶれる人が沢山おり、銀行も潰れてしまう時代であった。
このような時代になると、往々にして起こるのは犯罪で、誰もが生きるために不正などを働こうとする。でも、二郎と菜穂子は違った。彼らは反対に「正直」であり続けようとした。でもこれは、世界が混迷を極めていたからこそ、2人が防御反応的に「正直」に成らざるを得なかったとも僕は思った。
普通に考えれば、大人は危険な時代の中では、何とか生き抜こうと必死になり、何でもしてただ命を残すことを考えるだろう。でも、二郎と菜穂子は不完全であることや、自分たちが大人であるという認識には鈍感であったと思う。それよりも、自分たちが「どのように生きれば正直であり続けられるのか」という、ある種小説のテーマ(堀辰雄の「風立ちぬ」を考えれば十分考えられる)を背負っているのが、二郎と菜穂子なのではないかと思った。
劇中で二郎は、病床の菜穂子を「きれいだ」と言い続け、菜穂子も二郎がつくる飛行機を「きれいだ」と思い続けた。それが本当は負の側面を持っているが、彼ら2人の「正直さ」や「正しさ」を証明するには、あまりにも理不尽過ぎる現実だったんだと思う。それ故に過酷すぎる時代を見ることを避け、劇中で「僕たちには時間がない」と言っていたのであれば、彼ら2人が夢を語り、自分たちの夢を現実にするには、あまりにも切なすぎるのではないだろうか。
「不完全でいい」というメッセージ
僕は「風立ちぬ」を改めて見て、この作品の「生きねば」には「不完全でもいい」というメッセージもあるのではないかと思った。
二郎と菜穂子はあまりにも不完全な人だった。でも、それ故に誰よりも懸命に生きた。自分に正直に人生を送ることができた。そこには現代のような正解や不正解ではなく、ただ自分たちが「正直」であるために生き抜いた人生録だけがあった。生きるためだけに正解を求める、ある種の「正直さ」を捨てて生きる現代人へのアンチテーゼのように見えた。
人は純粋ではいられない。情報で溢れる現代では特に、さまざまなことを知ってしまう。そのメリットは当然あるが、僕は失ってしまっていることもたくさんあるのではないかと思っている。
別に二郎や菜穂子のように生きるのが正しいとは思わない。だけど、彼らのような人生を否定することも、同じく僕たちには全くない。彼らは誰よりも正直に生き、誰よりも悔いなく生き抜いた。
「風が立ちぬ、いざ生きめやも」
これは「生きることを試みなければいけない」という意図があるらしいが、「風立ちぬ」の映画ではまさに、自分たちに正直になって「生きることを試した」男女の物語だったのではないか。その一端に触れたからこそ、僕は急に涙してしまったのかもと、この文章を書いていて思った。
僕たちはネズミと同じである~「新世界より」を読んで思ったこと~
1 先日、私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。
先日、こちらのブログ主さまにて私の記事をご紹介いただきました。本当にありがとうございます。私としても、映像を見るのが苦手な人の意見はとても貴重なので、参考になりました。
ちなみに、ご紹介いただいたのはこちら。
↓↓↓
さてさて、今回は映画ではなくて漫画(小説)を元に話をしていこうと思います。
僕は仕事で、漫画を紹介するような仕事にも携わっています。その中で「新世界より」という、貴志祐介氏によって書かれた小説を元に、コミカラズされた本を執筆することに。
原作はちょこっとだけしか知らなかったので、漫画を読むのは個人的に楽しかったです。で、その中で出てくる「バケネズミ」という存在がいるのですが。このバケネズミをコミカラズするに当たって「かなり力を入れたな~」と個人的には思ったりしながら読みました。でも、それ以上に「僕たちはネズミと何も変わらないなぁ」と、同時に思ったりもしました。
2 人はネットにて広い世界を手に入れていない
もうすでに過去のことのようになっているが、アイドルが20か所も刺されてしまうニュースが飛び込んできた。刺された箇所から異常性はうかがえるし、何があったかなんて推測するつもりはない。ただ、僕が言及したいのは「ネズミと同じ」と言う点である。
「新世界より」にて 出てくるバケネズミは、とある方法にて人間と同じように言語を理解し、二足歩行にて生活している。そして、ネズミの習性はそのままに集団にて生活を保っている。この集団には「女王」が存在し、その王の元で繁栄している。
僕はこの部分を漫画で読んで、別に人間も変わっていないと感じた。言語を使おうと使わないであろうと、同じ「集団」で暮らしている点は同じである。その広さや言語による集団の棲み分けが違うだけで、やっていることは何も変わらない。
「女王」を「言語」に変えても同じだし、「国」に変えてもいい。僕たち人間は、何かに属して生きているわけである。それにいい・悪いのどちらも感じながら、僕たちは生きているわけである。
でも、ネットでは少々理屈が違ってくる。ネットでは割と自由に所属先を選択できる。自分が居心地のいい場所にて会話をし、意見を述べる。よく掲示板などを見る人は感覚的に分かると思うが、1つの事案でも全く正反対の掲示板が存在することは多々あることです(昨年の安保法案はいい例だと思う)。
じゃあ、ネットを中心に物事を測るようになるとどうなってしまうのか。その1つの居場所が自分のよりどころとなり、ほかの意見に対する抵抗力が弱くなってしまうと僕は思う。自分の意見ばかり立てる人の環境は、あまりいいとは思っていない。むしろ、混合玉石の状態に身を置くほうが、バランス感覚は付いてくると僕自身は信じている。
決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。
これ以上は部外者だから何も言えないけれど、この記事やアイドルの案件から言えることは、ネットと言う何も介在しない場所でも、僕たちはいつの間にか何かに「所属」しようとしている点である。
加害者の男性は、アイドルに対して自分の所属できる場所を抱いていたのかもしれない。でも、唯一所属できるかもしれない場所=世界への経路を閉ざされた気持ちになったのではないかと、記事やニュースを見て僕は思ってしまった。誰にも相談できず、ただひたすらに「つながりたい」という欲望だけが……。
想像でしかないので言及しないが、僕たちは何かに所属したり認められることに躍起なのである。この「認められる」という点では、むしろネズミを凌いでいるかもしれない。
3 やたらと「つながること」はいいことか
リスクを回避するために、たとえば自分の本を出版した際にも、サイン会や握手会といったイベントの類いのものは一切やっていません。誰だからわからない人と接触するのは、それほどまでにリスクが高いことなんです。
僕はこんな性格だから、「いい」と言われたものには何か裏がないか考えてしまう。紹介している記事にもあるように、人と会うにはリスクがあるし、相手の時間も奪っている。でも、色々とフリーになっている現代では、そうした垣根や警戒心が薄れているのも事実な気がする。
たとえばだけど、僕もネットにて「仕事のことで会いましょう」と急に言われたことがある。僕はその人と会うことになったのだけれど、時間にルーズで約束の時間通りにやってこなかった。僕は「なにかあったのですか」と聞いたけれど、別に用事はなかったらしい。
その日、彼が僕にした話と言えば、ネットビジネスの押し売りだった。僕はその間仕事もできず、ずっと彼の話を聞くだけで終わってしまった。事前に何のことかもっと聞けばよかったのだけれど、僕にとっては損害以外の何物でもなかった。彼は何も悪びれる感じもなく、断わったぼくを石でも見るかのように去ってしまった。
簡単に個人へアポを取れる環境は、大きなビジネスチャンスを生むことに違いない。また、彼にとっては新たな同志を見つける大きなチャンスだっただろう。でも、その思い込みが個人の「なにか」を奪うのだ。
今回のアイドルの件や個人的に感じる部分を含め、ネット環境によって「つながる」ことを見直す時期がやってきている。そんな気がしてならない。
4 さいごに
「新世界より」にもあったように、既成概念にとらわれた種族や人類は、衰退の一途を辿っている。同じように、高い文明を扱いきれず邁進し続ける種族も衰退する。結局はこのどちらかを繰り返すしかないのかと思うと、僕は少々辟易としてしまう。
このやり取りは「バブル世代」と「ゆとり世代」と全く同じ構図であるように感じる。どちらかが「オヤジだから」と言えば、またどちらかが「これだからゆとりは」と言ってしまう。これと同じである。
ネットという道具は非常に便利である。ただ、一歩間違えば簡単に「ネズミ」と同じような生活になってしまう。「新世界より」という作品は、そんな怖さを伝えていたのだろうと僕は思った。
-----------------------------------------------------------------------
「2時間の映画に耐えられない」のが現代人の嗜好
1 映画館で2時間座ってられない
2 映画をなぜ観るのか
3 無駄が嫌いな現代人
この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。
4 余裕のない国、日本
今の人みたいに、すべて時間とお金を引っ付けて考えることはできない。そんなギスギスした生活はまっぴら御免である。
事実、外国人が日本を旅する事がおおくなっている。これは、自国で稼いだお金で日本に来るのは容易になっている表れだろう。僕が住む地域でも、心なしか外国人が増えたような気がする。
世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。
5 政治家が嫌がる事じゃなくて「お金を掛けたい」と思わせないと
6 どうせ「無駄」なら休みを充実させるほうがマシ
それに、余暇があればアイデアを生み出し、愚痴る前に「こうすれば生活がよくなる」という行動につながるのではないだろうか。そこに対する無駄なら、大いにすべきだと思う。
引っ越しとコメント
世の中は、同じもので溢れている~時間のない現代人と消費されるばかりのコンテンツ~
久々に知り合いの物書きに会う
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-2163.html
先日、僕は自分が住んでいる地域で小説活動しているX氏と久々にお会いすることができた。その人はもともと、シナリオ出身だったが、そのシナリオの「おもしろさ」が買われて小説家になったようである。
小説家に転向してから、X氏に会うことはなかった。X氏は、2年前に僕が脚本を手がけた舞台を見に来てくれてから全く会うことはなかったので、喫茶店にて2時間以上も話し込んでしまった。その間に話題になったのは、小説という媒体や情報発信の在り方の代わり用であった。
X氏はシナリオ出身だが、始めは「とにかく小説を書きたい」というところから始まりである。その思いの元、技術を学んでいく内にシナリオを書くことになり、そして現在に至ることになった。もともと小説を「書きたい」というところから出発している人である。
でも、その日会ったときX氏は「千本桜って、ホントはすごいんですね」と僕に語りかけた。僕も存在は知っていたけれど、そこまではまっているという訳ではなかった。それからX氏は「ハニーワークスとか、今カラオケはボカロばかりですよ」と語ってくれた。最近はカラオケなんて行っていなかったが、アニソンばかりというのは知っていた。けれど、ボカロがそこまで広がっていることには驚いた。でも同時に、邦楽が売れない理由も何となくわかってしまった。
さらにX氏は「今は本当に小説が売れない。でも、千本桜とか見ていて動画の力や、二次創作の力って、現代ではあらがえませんね」という話もしてくれた。僕としてもそれは思うところがあって、X氏の話を聞いていて洋画の「シェフ」を思い出した。
あの「スカヨン」がチョイ役で出ている「シェフ」
「シェフ」という映画は割と沢山あるが、これはアメリカのスカヨンが出てくるつい最近のものである。この映画は、腕のいいシェフがグルメブロガーを敵にすることで職を失い、キャンピングカーにてアメリカ横断しながら、旅先で現地の人に食事を振る舞う映画である。このシェフが一人で再起するのではなくて、もちろんキャンピングカーを提供してくれる人がいると共に、自分の子どもが商売のヒントになる。
シェフの子どもはインターネットズブズブ世代で、どうすれば人が興味を惹くのか潜在的に知っている部分が大きかった。大人では到底思いつかないような手法やネットサービスを駆使することで、父親の移動型レストランを宣伝する立場となる。
この子どもは、写真だけでなくうまく動画を使って人気や注目を集めた。その中には1秒だけの動画まであり、これには僕自身も驚いた。
でも今思えば、これは日本でも1秒とは言わず短い動画コンテンツへどんどんシフトしているわけである。これはX氏も言われており、たとえば千本桜でも「短い動画の中にきちんとシナリオがある」と分析をしていた。
僕もコンテンツを利用して新たなコンテンツを生み出す「二次創作」の勢いはとどまるところを知らないと思うし、今の中学生ぐらいになればテレビよりもインターネットを見ている時間のほうが長いと話を聞いていて思うこともある。それに、絵や動画を作ることも簡単になっていて、誰もが表現者になれる時代なんだと、僕は思ったりする。
今求められるのは「素材」提供者
現代ではものを簡単に作れるコンテンツが出ている。ホームページもそうだし、写真や動画だってアイデア次第で創意工夫が見えるものがある。でもこれは、僕としては一種のファッションにしか思えないところもあるわけだ。
だってそれは、コンテンツを生み出せる「素材」提供者による「自由にどうぞ」という、いわば1つのコンテンツから派生した亜流でしかないからである。言ってしまえば、今の世の中は「二次創作」のようなもので溢れている、と言い換えることもできるはずだ。
これは別に個人に関した話ではなくて、邦画やドラマでも同じことが言える気がするわけだ。邦画やドラマを付ければ、何かのマンガ原作であることが大半である。今では6割強のドラマが、原作ありきなのではないだろうか。最近は「邦画がつまらない」なんて言われるが。
作る人がこのように視聴者に媚びるのも哀しいが、やはり現代のアニメやマンガなどが強い環境下で、実写による「共感」部分が少ないコンテンツを打ち出しても意味はないように感じてしまう。
単純に作り手の技術不足もあるが、受け手とのミスマッチという部分も大きいのだと思う。それと同時に、実写では今の「二次創作」という大きな流れにコミットしていないのだと思う。
例えば、アニメだと1つおもしろいものが発生すれば、誰かがそこから二次創作を始める。誰かが生み出した「アニメ」や「マンガ」は、二次創作しやすいコンテンツがたくさんある。さらに言えば、まっさらに想像された「絵」や「物語」は、真の意味で現実化していない。空想の世界である。その世界を自由にできる技術があるならば、してみたいと思う人もいるだろう。
これに対して実写はひとつの現実に関与しているもので、そこには1つの世界が宿っている。マネしようとしても、自分がその世界に関与する余地がない。
実写でこぞってマネをしていたものとすれば、昔で言えば「タイタニック」や「冬のソナタ」は顕著なのではないだろうか。印象的なシーンの再現やロケ地を回ることで、映画やドラマを見た人がその世界を楽しめた。
でも、今のドラマや映画はマンガという虚像の世界の焼き回しでしかない。それでどうやって「二次創作」を楽しめるのだろうか。マンガを使った映像化は、すでにテレビ局や映画スタッフが「二次創作」したものである。それを消費者が、また消費しようとは思わないだろう。
だからこそ、いまストーリーを作る人たちはシビアにも、そして二次創作意欲を湧き立てるようなシナリオ素材を作るしかないわけである。
良く考えれば……
お店などで流れる有線放送は、驚くほどアニメ主題歌やアイドルばかりである。でもこれらも、僕からすれば二次創作したもののように聞こえる。どれもが同じものばかりで、違いを見つけるほうがむしろ難しいように感じる。
もちろん僕がちゃんと聞けていないだけで、それ自体にはその良さがあるのだと思う。最近では「あさがきた」に使われたアイドルグループの主題歌は、僕は個人的に好きだった。すべてが悪いわけではない。問題なのは、その売れたものをずっと焼き回すことである。
別に二次創作が簡単や悪いと言いたいわけではない。X氏と話したように「千本桜」が生まれた文化は、新しい文化として認めないといけない。でも、それは結局のところ「初音ミク」という存在があったから生まれた文化である。
過去には「アムラー」や「ポッタリアン」などがいた訳で、これも一種の二次創作ではないのかなと、僕は思ったりする。言ってしまえば、二次創作とは自分が好んだ文化に対する一種の愛情表現なのかもしれない。そのレベルや発信の質が変わっているだけで、実は今も昔も同じことを繰り返しているのかもしれないと、僕は思ったりしないでもない。
もっと言えば、僕たちが行っている創作というものも、元を正せば日本古来で生まれた源氏物語をはじめ、物語の始祖たちから見れば「二次」となってくる。どこから二次創作と見るのかという議論もあるだろうと思うが、平安から考えると小説なんてものは、何度も焼き回しを行ったすでに「オワコン」なコンテンツなのかもしれない。
・さいごに
文化には「生活」がにじみ出ているものだと、僕は思ったりする。そう考えると、生活に馴染んでいるインターネットという環境から「千本桜」が生まれるのは必然だったのかもしれない。
では、現代に立ち返ったとき、この「初音ミク」を始めとするさまざま派生した文化を、僕たちはいつまで消費すればいいのだろうか。現行の邦画・ドラマ事情に当てはめれば、「千本桜」からさらにムーブメントを起こすような文化は、生まれないと僕は思っている。「千本桜」はボカロからすでに創作されたもので、一種のムーブメントを生み出している。
ここからさらにムーブメントが起きるだろうか。これが問題なわけである。同じものをすき好むのはいい。でもそれをずっと消費続けることは、実は今の音楽業界の姿勢と同じこととなりかねないと思っていたりする。
僕もただ小説を書くのではなくて、この能力を「素材」として見てもらえるようなコンテンツ発信をしなければ、生きていけないと心底思っているわけである。
--------------------------------------------------
祝‼ 読者登録40~50名さまブログ紹介記事
ども、リュウ・ライタです。
ダメですね、いちど途切れるとなかなか復活できない。
プロへの移行を考えていても仕方ないので、
以前から続けていた読者登録者さまの
紹介にて復帰したいと思います。
今回は読者登録者40~50名さまに該当します。
それでは、どうぞ!
今回の1人目は「おーまいがっ!」さまです。脱サラして経営者をされている方のブログになっています。ご自身のブログでも語られている喜怒哀楽の感情に沿って書かれるブログは、読んでいてスカッとするものがあります。
2人目にご紹介するのは「choipapaのブログ」さまです。自営業でシステムデベロッパーというお仕事をされているとのことで、「自営」という部分に勝手ながら親近感を覚えているブログ様の1つです。これから記事数が増えることを期待しております。
3人目にご紹介するのは「今日からできる節約・節約術 日記」様です。タイトルにあるように「節約」をテーマにした記事が多く、携帯電話の通信料やSIMに関することをしっかり解説しています。「携帯で困ったら!」というときにおすすめです。
4人目にご紹介するのは「固め濃い目」さまです。ご自身で言われているようい「日々」のことに焦点を当てた記事が多く、生活感が見えるブログ様です。今では熊本で起きた地震に関する記事も多く、思うところがある人は必読です。
5人目にご紹介するのは「迷い日記」さまです。SEをされているとのことで、私の取引先の1人ではないかと個人的にビクビクしております。「迷い日記」さまも個人の趣味などを書くことが多く、ガンダムネタなどで仲良くしたいお一人です。
6人目にご紹介するのは「フリーランス主婦の2拠点ライフ」さまです。同じ職種の方と、このはてなブログにて始めてお会いした方かもしれません。個人的にお世話になっているブログ様で、フリーランスや主婦からの視点が見れるブログになっています。
7つ目にご紹介するのは「PincheTakk」さまです。世界旅行をテーマにしたブログになっており、ブログ執筆者さまご自身が体験したことを記事として見ることができます。タイやベトナムなどアジア圏の記事が今アツイです!
8人目にご紹介するのは「引用書店」さまです。タイトルの通り本を「引用」するという形でブログを執筆されている方です。その本の数は凄まじく、またバリエーションも豊富。あなたの「読みたい」が見つかるブログと言えるでしょう。
9人目にご紹介するのは「晴れの国岡山から旅まちめぐり」さまです。三重から岡山に移住してからの日々を書いていることが多く、倉敷や瀬戸内芸術祭を訪れた記録が残っています。旅先の候補として考えるとき、見てみるのはいかがでしょうか。
今回ラストを飾るのは「summersunday’s blog」さまです。映画や小説を始め、転職や婚活など執筆者さまの興味が惹かれるまま記事を書いております。その多岐にわたるテーマの中でも「飲み会の一発芸を考える」記事は、類を見ないかと思います。
はい、以上が今回の10名さまでした。
ほんとうに、更新が気まぐれすぎて申し訳ないのですが……。
ですが、登録いただく限りは始めたことなので。
紹介するまでは止めることはありませんので。
暖かい目で見ていただければと思います。
それでは、また。
--------------------------------------------
一本の糸
衣服点で働くサトコは、誰ともわからない衣服を修繕する仕事をしていた。